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直接的にメディアに関わる論考でしないが、こういうことに関心のある<放送人>もいるのだ、と思っていただければ、それでいい。私たちがどういう時代に生きているのかを考えることは、放送人の<仕事>なのだから。
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ノート「主権者の社会認識」(庄司興吉著)を巡って

1. 概要/構成 本書の概要を図式化して示せば、以下の通りだろう。
(1) 基本概念=「共同性」・「階層性」
(2) その歴史的展開・キーワード
共同体⇒農耕社会⇒階層性の発生
⇒宗教というシステムの登場
⇒国家の成立とその発展形としての帝国
⇒市場の形成(資本主義)と市民の登場
➡<近代>
=市民革命⇒国民国家と普通選挙・議院制民主主義
⇒技術革新と産業革命-市民とブルジョワジーの二重構造
⇒植民地(収奪と支配)⇐差異の存在/国内から海外へ
⇒帝国主義と社会帝国主義⇔核⇒植民地の独立と開発途上国の市場化
⇒冷戦構造の終結⇒旧社会主義圏の周辺市場の成立
⇒オリエンタリズムと新自由主義(⇒「歴史は終わらなかった」)
⇒現代思想の展開(構造主義とポスト構造主義)⇒脱構築/生政治
➡ポストコロニアル時代の格差(その増幅と多種多用多角化)
 ※原型としてのパレスチナ
⇒サバルタン/マルチチュード そして身体性(セクシュアリティー)
⇒新「帝国」/世界支配システムの成立=一強支配の歪と現代のテロ
➡産業の高度化と地球環境⇒生態系内在性としての人間
⇒21世紀的民主主義⇒市民から主権者へ⇐初身体と自己言及
⇒未主権者の主権化/脱主権者の再主権化 
=IT時代の地球市民社会のあり方/主権者社会と国際システムの構築
(3) 集約=<現代社会のマトリックスおよび構造と主体>

2. 簡単なコメント
(1) 専門書 啓蒙教養書 教科書
専門書というよりは、丁寧な語り口と構成による啓蒙書のような教科書のような性質のものだ。その丁寧な構成は、例えば上記(□)内の時系列的事象の意味が繰り返し、ロンド(輪舞曲)のように、あるいは螺旋形状に語られ、ステージが上がる度に論点が深められていくことに示されている。
(2) その上で、主権者というより「主権化」(再主権化を含む)のための、ムーブメント(運動論)のための書であるといえるだろう。
(3) その基本概念は「共同性」と「階層性」である。
全章を通してこの二つの概念を意識して読めば、論旨はおのずから明確に理解されるだろう。
(4) 序章の現代思想概説の見事さに感心した。現代思想の意味とそれを語った哲学者思想家を、網羅的に且つ簡潔に語っている。登場する名前やそれぞれの代表的言説について多少の知識はあったとしても、この集約は大変整理されていて勉強になった。そのうえで、「何故この人は登場しないのだろう」「あの人に触れてくれたら良いのに」という若干の人や事例については、次節で触れる。
(5) 著者の意図するところは、最終的に一枚のマトリックスとして提示される。マトリックスであるから、当然のことだが極めて簡潔に整理されている。本書を普通に?読めば、このマトリックスは無理なく理解できるだろう。
その上で、このマトリックスの面白さは、著者とは別に読み手の問題意識によって、書き加えたり、省略したりすることが可能な柔軟な仕組みになっていることだろう。
(6) 読みながら感じたもう一つのことは、社会学という学問は、他の学問の分野との接点(境界領域)を取り込んでいく拡張型学問であり、先行する他の、例えば経済学・法学・歴史学などなどは、自己の領域に固執する囲い込み型学問なのであろうということだった。もちろん、自然科学も人文・社会科学も複合的な研究に取り組まないと新しい発見がない時代に入っていることは明らかだが、古くからある学問分野ほどやはり保守的傾向にあるのであろう。

3. 関連する課題と残された論点についてのメモ
さて、読みながら、あるいは読み終わって、さらには一部再読しながら思ったことをランダムにノートすれば以下の通りである。
(1) 主権者とは「自分たちの社会のあり方を自分たちで決めていく人間」(著者)とされている。それは、常に「主権者になる」というダイナミズムと一体の認識である。
すなわち、主権者とは運動なのである。
(2) では、「主権」とは何か。もちろん、権は<権利>を指すのであろうが、概念上<権力>とも不可分である。
(3) ここから、権力論、国家論に論究することが可能であり、その点でさらなる検討が期待される。
(4) ところで、宗教はシステムとして機能したであろうが、そのようなものとして誕生したのであろうか。神、祭祀、信仰、宗教、権威、権力の関係は?
(5) 「国民国家」について、<想像の共同体>(ベネディクト・アンダーソン)をキーワードとして考察されていることに強く同意するが、それは<民族><人種>などの(自然発生的)共同性を基にした概念とどのように関係するのだろう。
(6) 市民と主権者という関係についての考察を読みながら、
<シトワイアン オム ブルジョア>の関係について語っている「ユダヤ人問題によせて」(マルクス)に思い至った。
(7) 市場の拡張と技術の高度化による近代社会の形成は、資本階級による国内外の富の収奪という構造を成立させた。他方で労働階級は、収奪される存在として位置付けられるが、こうした差異(階層性)は階級(経済的あるいは下部構造的)に限定されるのではなく、文化資本の格差などによる意識の問題としても立ち現れる。
(8) 意識の問題とは、格差からの解放と主権者化の過程の同時進行の中で、運動の主体として自立しうるかということである。その場合、状況認識、組織化、方法、など優れて意識に関わる問題を、誰がどのように提起し対応するかということがさらなる論点となろう。
(9) この点について、著者は<ルソーからレーニンまで>という切り口で鋭く指摘しているが、それでもなお、「主権者とは主権者になるためのダイナミズム」であるとするならば、組織と意識の関係はさらに踏み込んだ考察が必要であると思われる。これが権力の問題なのである。
(10) これに関連して、労働者階級という規定に含まれる人々は、同時に近代における「大衆の登場」として論じられてきた。(オルテガ・イ・ガセーに始まり、C.ライト・スミス、エーリッヒ・フロム、など)
(11) ファシズムの成立は、彼らの意識を<どちらが>が組織化できたか、という問題でもあったはずだ。
(12) このことは、近代市民社会=初期主権者社会?の条件とされている議会制民主主義の問題と不可分である。ファシズムは、制度としては議会から生まれたことは、既に知られている。
(13) 普通選挙と議会制民主主義は<より良い方法>であるが、何かを約束するものではない。
(14) このような論点から、ハナ・アーレントやカール・シュミットなど現代政治を語る時に外せない論者についての考察があっても良いと感じたのだった。
(15) 併せて、近代社会の根源的な問題について語るのであれば、市場/交換という経済行為の対極にある消尽あるいは贈与について触れてはどうだろう。その意味で、ジョルジュ・バタイユも欠かせない。
(16) さらに、近代の問題は表現/芸術とも関係する。主権者はここでも自立的であるべきだ。ヴァルター・ベンヤミは市民と大衆について考察するとともに、大衆社会における芸術の意味を問うている。複製技術とアウラ。
(17) ロシアアバンギャルドとハリウッドのグラフィズムを分析しつつ、「どれほど実質を変えようと、形式が同一なら、その表現の意味は基本的には変わらないのではないか」という問題を提起したのは柏木博だ。日本の戦時下の海外宣伝グラフ誌「FRONT」も同じ線上にある。
(18) 著者の現代思想の解説の中で強く惹かれたのは、(意外にも)サルトルだった。構造主義以後、サルトルは語られることが少なくなったが、やはり「主体としての人間」という問題は、重要である。
神が死んだ後に生きなければならない現代の主権者は、<主体>であることから逃れられないのである。
(19) この<主体>の問題と<(政治的)意識/組織>の問題は、主権者時代の思想/哲学の課題として重要であろう。
(20) <意識>の生成の場は特定の政治空間に限られない。
「政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力を持っているからにほかならない。」(埴谷雄高)。
これを逆転させればあらゆる領域は政治的であるということになる。つまり、権力は生活の細部にまで自らを届かせようとするのである。ここでは、「錯覚」それ自体が極めて政治的なものなのである。このことは、G.オーエルの世界に通じ、また「生政治」にも通じるであろう。
(21) 政治空間としての街頭と暴力の問題をどう位置付けるか。さらなる考察があって然るべきだろう。
(22) 宗教から解放された国家は、その正当性を物語に求める。物語は抒情を織り込む。<祖国>の誕生。こうして国家は抒情を組織する(後述)。
(23) 他に、主題に関連する人々と論点
・ 初期マルクスル ジョルジュ・カーチ、アンリ・ルフェーブル、
・ 構造改革 アントニオ・グラムシ
・ 社会帝国主義批判(スターリン批判)の先駆として、アイザック・
  ドイッチャー
・(日本の学者・研究者)
 人類学・宗教学=中沢新一
 ナショナリズム=大沢真幸
 資本主義論=岩井克人
 技術と世界認識=山本義隆
(24) 地球民主社会の主権者とネティズン。
ネットワーク社会は主権者が主権者になるための前提であろう。では、そのネットワーク社会が、フェイクニュースやヘイト的言論(ネトウヨ的)空間も構成することをどう考えるべきか。「誰もが情報発信者になれる」という極めて優れたシステムが、他方では「憎悪と不寛容」を増幅してしまうというパラドックスをどう解くことができるのだろう。
(25) おそらくそれも、<地球社会の主権者>というムーブメントにおいて、<市民/大衆の意識>をどう主体化するかという問題と近接する。ここにも、権力の問題、政治意識の形成の場の問題、あるいは文化資本の問題が絡み合っている。
(26) メディア。ここでは、「権力との緊張関係を失ったメディアは、ジャーナリズム機能を放棄している。しかし、大衆社会におけるメディアは、より多くの人に受け入れられること、および社会的安定機能が求められていることも否定できない。どういう状況でこの構造を突破できるだろうか。<知る権利>の行使とどう向き合うかということを、メディアは常に問われ続けている。」とだけ言っておこう。
(27) 螺旋上の論理展開によって提示された主権者の運動は、地球民主主義として実現されるだろうか?・・・という風に批評的に語られるべきではないだろう。但し、私はこのことについて楽観的に語る気分にはなれない。気質の問題かもしれないが・・・。
(28) その理由は、(典型としての)パレスチナ問題の根の深さと、次節のメモにある日本近代の屈折にある。
(29) とはいえ、他に何かすることあるかといえば・・・ない。


4. 個人的問題意識/読み手として受け取ったもの
 現在の私の最大の関心事である(学生時代から関心のあった)<日本の近代>について、本書によりあらためていくつかの刺激を受けた。
(1)  近代と欧米日
「非西欧近代はありうるか(ありえたか)」という問いは常に存在しうる。近代化とは、産業技術と市場経済と市民の登場だとすれば、そしてそれは<西欧による非西欧に対する差異による収奪>によって支えられたのだから、非西欧型近代はありえない・・・のだろうか。
(2) 日本の近代化が、日清・日露の戦役を経て第二ステージに入ってから、<15年戦争>に至る間、日本近代の行き詰まりの時代に日本人が何を考えていたのかは、重要な論点である。
(3) その最終ステージで試みられた二つの座談会、「近代の超克」(1942年)と「世界史的立場と日本」(1943年)は、その時代の(近代日本の)知の最高水準の仕事と考えてよい。それが太平洋戦争賛美のイデオローグの役割を果たしたというのは定説であり、そのように機能もしたのであるが、それでも「日本の近代とは何か」という問いは成立するのである。
(4) 例えば、ここに集約された戦前の知の作業は、西田幾太郎、野呂榮太郎、林達夫、戸坂潤、三木清、中井正一、少しずれるが花田清輝らの仕事につながるであろうし、日本近代の病理を見ていた夏目漱石の門下にいた芥川龍之介の自死も、永井荷風や谷崎潤一郎の位置づけもここに関係するだろう。では、「日本浪漫派」は?
(5) 先に例示した海外宣伝グラフ誌「FRONT」のように、美は(技術とともに)政治から自立しうるかという問いもここにある。(※2 ※3)
(6) 「日本近代とは何か」という問いを、<政治的行為>として最初に提起したのは北一輝であり、戦前最後のそれは尾崎秀実によるのではないかと考えている。
(7) もちろん一方では、幕末からの思想的な流れとして、勝海舟―坂本龍馬―中江兆民―幸徳秋水、という系譜があり(内田樹)、それが大逆事件により切断されたという事実もある。その意味で、大杉栄と北一輝は相似的である。ここにも鋭く「日本近代」の屈折を見ることができる。
(8) 「日本近代はありうるか(ありえたか)」という論点は、例えば<敗戦後論>(加藤典洋)という発想=敗戦構造の認識のあり方に接続される。
(9) さらには、渡辺京二の近代論に関する仕事などにも当然関わる根の深い問題でもあろう。
(10) それ故に、<「近代の超克」の超克>は現在的課題なのである。(※1)
(11) こういう問題意識は、1960年代に至る戦後思想の意味を改めて問うことになる。吉本隆明、谷川雁、埴谷雄高、竹内好、鶴見俊輔、橋川文三などの思想家の提起した問題は、いまもう一度捉え返されてよい。
(12) [メモ] ランダムに例示すれば、大岡昇平、堀田善衛、江藤淳、大江健三郎、小田実、山田風太郎、などの作家文学者、木下順二、宮本研、福田善之、などの劇作家、小津安二郎、木下恵介、内田吐夢、岡本喜八、などの映画作家、そして牛山純一、吉田直哉、和田勉、大山勝美、村木良彦、などのテレビ制作者、などなど戦後文化の広範な領域に残された彼らの仕事も丁寧に検証されるべきだ。彼らの残したテキストの意味は、今こそ重要であると思われる。
(13) 私が、最初に近代の意味と近代を生きる生き方に深く興味を持ったのは「転向」の問題である。
(14) 何故、「転向」が起こり得るのか、その特異な現象に強く刺激された。共同研究「転向」は、「思想の科学」の優れた研究成果であり、「転向」を巡る多くの論争が登場した。偽装転向という概念にも吃驚した。
(15) 欧米でも「転向」現象はある。
「神は躓く」(リチャード・クロスマン編)には、アンドレ・ジイドなど共産主義に強くシンパシーを感じていたヨーロッパのインテリゲンチャーの思想的屈折の事例が記録されている。また、アメリカでは、戦後のマッカーシズムが多くの知識人を傷つけた。ハリウッドの映画監督たちの中で、エリア・カザンの例を、蓮實実彦と山内昌之が「われわれはどんな時代に生きているのか」で語っている。
(16) 「転向」の問題に顕著にみられるが、日本の思想は常に天皇制との関係が(潜在的であれ)基本構造になってきた。戦後の象徴天皇制において、そこを巧みによけながらとはいえ、常に必ずどこかで意識されている、と思う。
(17) 日本近代の横軸が欧米の近代であれば、縦軸は天皇であろう。
(18) 「天皇とアメリカ」(吉見俊哉 テッサ・モーリス・スズキ)の帯に“天皇は近代であり、アメリカは宗教である”とあるのは示唆的だ。
(19) どうして憲法第一章第一条は天皇なのか。それが戦後史の始点ではなかろうか。
(20) それにしても、昭和20年、どうして<私たち>は「一億玉砕」からあっという間に「一億総懺悔」変わることができたのだろう。(※4)
(21) さて、私たちが地球市民時代の主権者社会を目指すとすれば、即ちそれは「主権者とはムーブメントである」という原点に戻るということなのだが、その時こうした問題意識の外にポジショニングするわけにはいかないのである。楽観的になれない所以である。
(22) 「日本の近代とは何であったか 問題史的考察」(三谷太一郎)を読み始めたところだ。
(23) 参考として、拙稿<-戦後70年のための覚書き-「ハンナ・アーレント」が映画化されたように「近代の超克」のテレビ化は可能か>を添付する。
(24) 補足:国家と抒情(メモ)。
<国>というもののややこしさは抒情と結びつくところだ。そして、抒情は権力によって編纂され組織される。小学唱歌など。
「近い将来、ドイツと日本が何をしでかすか知らないが、『ドイツロマン派』と『国学』とはその心理的基盤でかならず復活するであろう。・・・普遍主義への守勢が反攻に転じたとき、学問方法上、一定の生産性を備えていたロマン主義は一挙にイデオロギーに陥落する。」(野口武彦)。抒情と政治という論点も<主権者>に深く関わっている。先に、主権者の意識についての論点を提示したが、抒情/ロマンの問題は相当に複雑で難解なものであると覚悟したい。反知性主義の危うさもそこにある。(※3)
(25) 人は抒情的な存在である。特に、多くのものを得た分だけ何かを失っている現代人は、そうなのだと思う。
(26) その抒情を反転させて国家との関係を鋭く切り裂いた歌人たちもいる。例えば、
「マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」
                           寺山修司
「朝焼けの空にゴッホの雲浮けり捨てなばすがしからん祖国そのほか」
                          佐々木幸綱
戦死した父の墓所に来て「身捨つるほどの祖国はありや」という問いを歌った寺山修司も、その返歌のように、「捨てなばすがしからん」と詠んだ佐々木幸綱も、このように「祖国」との関係を鋭く意識している。国に編纂されることを拒む抒情がここにある。

5. その他 極めて私的感想①
 □ ジーンズについて
(1)  「アメリカは、その意図を超えて,『帝国』と呼ばれるような世界支配の新システムを創り出しつつある。それは、地球規模の電子情報市場化をふまえた消費社会であり、ファストフードとジーンズとマイカーとケータイに象徴されるような、生政治的生産に基づく世界支配のシステムである。」とある(p17)。
(2)  しかし、ジーンズについて、少し違う角度から考えてみたい。ジーンズ好きな私だからそう思うのかもしれないが。
(3)  現在、ジーンズもまたグローバル経済のただ中にあることはいうまでもない。
(4)  原材料の調達、染色、紡績、裁断、縫製、流通、そのすべてが「世界システム」に逃れようもなく組み込まれていることは、「放浪のデニム グローバル経済に翻弄されるジーンズの世界」(レイチェル・ルイーズ・スナイダ―)に見事に描かれている。
(5)  しかし、日本にジーンズが登場した時代、例えば「エデンの東」のジェームス・ディーンから受けた新鮮さや、「青春残酷物語」(大島渚)のあの印象深い、流産した恋人の枕もとで、ジーパンでリンゴを拭いてかじる長回しのリリックなワンカットなど、ジーンズは自由と反抗を意味していた。
(6) 1960年から70年、新宿風月堂や渋谷山手教会地下のアングラ劇場、フォーク、ロック、そしてジャズの集会に集まる若者たちは、みなジーンズを履いていた。
(7) その後、天安門事件の青年達もベルリンの壁を解体しようとした若者も、ウォール街を占拠した男女も、みなジーンズが<戦うスタイル>であり、それ以外のスタイルは考えられない。
(8) ファッションがある程度の経済的余裕のある世界から、何も持たない者にも開放されたのもジーンズによるものであろう。ファッションの持つ階層差の乗り越えは、このようにして始まったものと思われる。
(9) そうした現象そのものが<世界支配のシステム>と言えばそうだあろうが、ジーンズには<自由と反抗>の歴史が刻印されていることを忘れてはならない。
(10) 例えば、軍服や囚人服、そして学生服など制服というものが持つ規格性(ビジネススーツも)は、機能性の追求だけでなく、(むしろ)服装による意思表示=自己表現を収奪する効果を持つ。まさに生政治がそこにある。
(11) であるがゆえに、自己表現としての衣装=ファッションには、既成概念の乗り越えという意味、あるいはそこに込められた意思を見ることができる。イッセー・ミヤケやケンゾー・タカダの仕事の評価もそこにあるだろう。
(12) とはいえ、その仕事は“業界”(市場)という場を前提とせざるを得ない。
(13) 商品経済の中での<表現>は、常にこの関係の中にある。
(14) ジーンズそれ自体が、自己表現としての意味を持った時代は、確かに過去になった。しかし、若し<着ること>を「世界支配」という現象として考えるならば、例えばビジネススーツからビジネスマンを解放するべきであろうし、それは「世界支配」のシステムの環をどこで断ち切るかという構造的テーマの問題ではあるまいか。
(15) 全てが「世界支配」されているのならば、その転換は内部から始まるしかないであろう。
(16) そして、私はジーンズを身につける時の自由さが好きであり、大切にしている。

□  その他 極めて私的感想②
(1) 「脱構築」の意味を再確認しようと思って苦労した。
構造主義やポストモダンについて「なんだこれは?」と思ったのは、大分遅かった。現場で忙しいころは、とても手が出なかった。その後、漸く今村仁司氏の本などを読みながら手探りで頑張ってみたが、独力では難しくてわからないことが多かった。もちろん今でも。
(2) <新身体><自己言及>という概念を初めて知った。
新身体と自己言及という関係は、「なるほど」と思った。
(3) 「人間が、一神教・貨幣・国家というものを創り出さなかったら、もっ  と幸せだったろうに」と語り合ったことがある。酒飲み話だったが、今でもそう思っている。しかし、創り出してしまったのだからしょうがない。その不幸?を背負っていくしかないのである。
(4) いま、私たちは歴史のどの時点にいるのだろうか。
(5) 「人間はボートを漕ぐように背中から未来に入って行く」。自分で思った言葉として、結構気に入っている。背中側から近づいてくる景色が、時間とともに眼前の像になる。そのように人は未来というものに出会うのだ。

□ 書き直し、書き足しているうちに冗漫なところが大分あるが、このままにしておこう。
疲れたけど、面白かった。
庄司さんに感謝。
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[参考]
※1<「近代の超克」の超克を>
※2「嘗て東方に国ありき 8月15日はどう記録されたのか」
※3「映画『風立ちぬ』について。10の断想」
※4<-戦後70年のための覚書き-「ハンナ・アーレント」が映画化されたように「近代の超克」のテレビ化は可能か>

以 上


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