HOME > Special > 「新聞は世界を一つのまとまったもの(パッケージ)として示すけれど、テレビはそうではない」「そう、テレビはパッケージの対極にあるメディアなのだ」。

Special

高校時代の友人と懇談。
社会学の教授と大新聞の記者

 先日はお疲れ様でした。
 打合せ後の雑談?で話題になった「新聞は世界を一つのまとまったもの(パッケージ)として示すけど、テレビはそうではない」という話題について、「テレビはパッケージの対極にあるメディアだ」というようなことを言ったと思います。
 テレビというメディアの基本構造について、10年ほど前に書いたものがあります。「デジタル時代の放送を考えるために-放送メディア論ノート-」。これは、民放連(日本民間放送連盟)編<放送ハンドブック>の序論として書いたものです。このハンドブックは、制度、経営、放送倫理、知的所有権、報道、技術、などについてそれぞれ民放界の担当者が執筆し、放送の仕組みと現状を網羅的にまとめたものです。放送経営の基本であると同時に社員教育(特に、地方局のように総合的な教育基盤が十分でない各局)のテキストとすることも意図されているものです。全体は、650ページの大部なもので、数年に一回改訂されます。現在は新版が出ているかもしれません。
 地上テレビ放送のデジタル化を迎える時代の中で、改めて放送の基本構造を私なりに考えてみました。「放送の同時性(ライブ)/共時性」をキーワードにして情報、技術と制度、政治、産業、デジタル、デジタル時代のプロフェッショナル、などの項目になっています。
 時間のメディアとしての放送(テレビ)は、活字メディアや映像記録メディア(映画)など先行するメディアに影響されつつ、それらとは違うメディアとして成立したことを強く意識しています。
 では、どうしてそのような認識に至ったかと言えば、1968年のTBS闘争が原点にあります。TBS闘争とは、成田空港反対闘争を取材していたTBSの取材車に反対同盟の運動員を乗せたことで報道の中立性が問われ社員が処分された問題、ニュースキャスター田英夫氏が自民党の圧力で降板した問題、テレビ的表現を追求して制作した番組が問題になって二人のディレクターが反転された問題、ほとんど同時的に起こったこれらの問題をめぐる闘争を言います。これらの問題に対して組合は反対運動を組織しましたが、組合の闘争を超えて「これはテレビとは何か」という戦いであるという提起があり、経営にはもちろん、組合にも、管理職にも、支援する共闘組織や取材に来た記者たちにも「あなたにとってテレビとは何ですか」という問いを投げかけたのでした。そこから<テレビとは時間である>、<テレビは非芸術・反権力>という提起が現れます。これこそが、テレビが先行する諸メディアから自立するテレビ論的原点になったのでした。もちろん、現実的に機能する編成制作営業、つまりテレビ経営は、このような理念で行われているわけではありません。しかし、テレビというメディアを考えるとき、この50年前の問いは、今でもその重要性を失ってはいません。私はいつもこの原点に戻ります。
 TBS闘争に深く変わった三人のディレクター(萩元晴彦 村木良彦 今野勉)が闘争終了直後に書いた「お前はただの現在にすぎない テレビに何が可能か」(田畑書店)は、テレビ論の歴史的かつ現在的記録です(2008年に朝日文庫で再刊されましたが、二刷はありません)。 私もMというイニシャルで何か所かに登場しています。
 「お前はただの現在にすぎない テレビに何が可能か」の最終部分に書かれている「お前はただの現在にすぎない」に込められた意味をコピーしましたので、併せてご一読ください。何故、テレビは世界をパッケージにしないのか、<しないこと>こそがテレビの基本なのだと思います。

補足
この本には、東大闘争、日大闘争、反戦青年委員会、パリ5月闘争、プラハの春、などが登場し、ゴダールの発言や異色の思想家と言われることになる内村剛介のインタビュー、なども記録されています。その時代が色濃く投影された極めて優れた、またテレビ的方法によるドキュメントなのです。

続きの議論はまたいずれ。

-デジタル時代の放送を考えるために・放送メディア論ノート-
放送の原点・放送の構造・放送の可能性


 この「放送ハンドブック」は、デジタル化を迎えつつある放送が、現在取り組もうとしている課題を網羅的に取り上げ、具体的に、また実践的に解説している。このハンドブックをマニュアル本として利用することはもちろん可能だが、それよりもこれを読むことによって、放送という社会的メディアが如何に多様な要素で構成され、またどのような仕組で機能しているか、そして民間放送の事業構造とその基盤となる制度の関係はどのようなものか、を知ることが出来るだろう。
 放送局で仕事をすれば、その全体構造の一部を担うことになり、その個別具体的な仕事の中で放送の全体像を意識することは少なくなる。しかし、放送はこうした様々な要素や関係により日々膨大な情報を送り出している。放送という社会的なメディアにおける自分の仕事の意味を問うことは、私たちにとって極めて大切な行為である。それは、放送が視聴者に対する責任、国家との関係、そして情報社会における産業的位置などにおいて、社会的に大きな役割を負うからである。
 このハンドブックは、放送という場にいる人々が、それぞれが担当する仕事に足を置きつつ全体を考えるための意味を持つものだと考えたい。デジタル技術による情報環境の変化は急速に進展している。この変化の中で、放送自らも変化を求め、挑戦をしていくために、この「序論」では放送の原点・放送の構造・放送の可能性について考えてみたい。

Ⅰ.情報
 放送は情報産業だといわれれば、当たり前だと思うだろう。では、情報とは何だろう。
辞書を引けば、情報という言葉の意味を知ることが出来る。広辞苑の「情報」の項には「①或ることがらについてのしらせ。②判断を下したり行動を起したりするために必要な知識」とある。「情報産業」と引けば、「情報の収集・加工・処理・検索・提供などの業務に直接関連する産業。広義にはマスコミ産業など、狭義にはコンピューター関連産業」と出てくる。まあそんなものだと思うものの、それを知ったとしても「放送は情報産業だ」というこのハンドブックのことがわかったとは思えない。おそらく、情報という概念が学問の対象になったのは、コンピューターの研究開発によるものであろう。だから、「狭義にはコンピューター関連産業」という定義づけが登場するのだろう。少し変だと思うのだが、ここではとりあえずそうしたいわゆる情報学ないしは情報工学的アプローチから自由に考えてみよう。
 たとえば、こういうふうに考えてみてはどうだろう。広辞苑のいう「しらせ」や「必要」という言葉を反対から考えれば、「しらせ」や「必要」という行為の外にある情報というものがあるはずだ。人間の目には感知されないが、他の動物には認識され、彼らの行動に必要な色や臭いや音が「情報」として存在するように、世の中には日々無数の情報が生起し、漂い、消えていっているのではないだろうか。これを「原情報」とするとして、その中から「しらせ」たいと思うもの、「必要」とされるものが捕捉され伝達される、つまり「原情報が情報になる」のであろう。したがって、「放送は情報産業だ」というときの情報とは、とても幅広なものである。その幅広い情報を切り取り、編み上げて送り出すのが放送である。ニュース・報道はもとよりドラマ、バラエティー、スポーツなどすべてが情報なのである。
さて、それでは原情報は如何にして情報になるかといえば、それは「形」を備えることによるのである。言語であれ、文字であれ、映像であれ、あるいはその他の何であるとしても、原情報がある「形」を伴ったときに情報になる。ここで「形」といってみたが、言語や文字や映像も「形」のあり方であろう。なぜここで「形」という言葉を使うかといえば、原情報という不定形のものが、社会的(個人間の情報伝達も社会的である)に認知され、意味を持つためには、まさにそれなりの「形」が必要だからである。形には、二通りあって、一つは液状であり、もう一つは固形である。前者は、原情報を媒体に記録(蓄積)せず、しかし意味を持った情報として伝送する場合であり、後者は媒体に固定されて情報は伝送される。放送でいえば、前者はライブ番組であり後者はパッケージ番組である。つまり、気体のように生起し漂う原情報を、集約し加工し「同時」に伝送する液体型番組と媒体に記録(蓄積)して伝送する固体型番組があり、それぞれに編集過程が存在する。そして、総合的に液体と固体を組合わせることが、放送における編成機能である。このとき、液体(ライブ)として原情報を情報化する場合は特にそうなのだが、情報と媒体は一体化することで放送というメディアが成立する。
電波メディア*1である放送は、記録より伝送が先行して成立したことの意味がここにある。もちろん、電気通信はすべてそのように成立したのであり、基本的に技術的な相違はないのだから、通信と放送の間には別の発展関係もありえたと思うが、少なくとも放送が通信とは別の産業として成立する過程では、送信主体が情報編集も行うということ(情報と媒体の一体化)が基本的なモメントであると考えてよいであろう*2。なお、情報と媒体の一体化は、制度としての、いわゆる「ハード・ソフト一致」*3を直接的に意味するものではない。
*1.一般的には、メディアと媒体とは同義語である。広辞苑では「メディア【media】(medium
の複数形) 媒体。手段。」と書かれている。だが、単なる手段としての媒体と、それによる社会的機能を意味する場合があり、微妙に言葉の意味が異なるように考えられる。明確な使い分けは困難だが、後者の場合にメディアという言葉を使うように努めてみたい。その都度意味を確かめる必要があろう。
*2.最近の情報産業、情報政策の議論では「メディアとコンテンツ」という論点が示されるが、
その場合しばしば道路と運送業と荷物のような関係で情報を捉えようとしているように思われる。この場合のメディアは、*1における「手段」の意味である。しかし、人間の仕草が情報でありそれが身体と切り離せないように、媒体と分離ではない情報が存在しても不思議ではない。問題は放送が情報環境の変化の中で、「情報と媒体の一体化」という機能を制度的にあるいは産業的に維持・継続されるべき合理的な根拠を示し得るかということである。
*3.しばしば「ハード・ソフト一致原則」について、「放送事業者が受信端末までの伝送路を設置・維持すること」と受け取られているが、それはむしろ「あまねく普及(努力)義務」に関わることと解したほうが適当であろう。「ハード・ソフト一致」の意味するところは、「放送用周波数(ハード)の使用権を有する免許主体が、情報編集責任(ソフト)を持つこと」であると考えたい。

Ⅱ.技術と制度
 放送における媒体はいうまでもなく電波である。電波を利用する情報伝送(送信と受信)は、電気通信というカテゴリーに含まれる。電気通信には無線と有線があり、放送はもちろん無線である。放送法では、放送を「公衆が直接受信する無線による送信」と定義している。放送がそのように定義付けられるようになった歴史的経緯について、電気通信の歴史を紐解く必要があるが、ここではそこに立ち入らないことにする。というより、電気通信史の初歩から勉強しなければ立ち入れないからだ。それはそれでなかなか面白そうなので、機会があれば少し勉強してみたい。
参考:「メディアの生成・アメリカラジオの動態史」(水越伸)。
 さて、無線つまり電波には周波数があり、それは「有限希少」であるといわれてきた。その理由を素朴に考えれば、①電気通信に利用できる特性を持った周波数に限度があったこと、②各国の周波数利用には国際調整が必要であり、その結果それぞれの国が使用できる周波数が割り当てられること、③無線による送受信の手段が限定されていて(例えば電信、電話、地上放送)、参入機会が特定されていたこと、④伝送効率を高める技術的方法(圧縮)が未熟であったこと、などによるものであろう。このため、電気通信はその技術的な発見発明の後で、かなり早い段階から国家よる規制対象(乃至は国家管理)になったのだと考えられる。近代技術は近代産業(産業資本主義)、近代社会、近代国家と蜜接かつ重層的に絡み合っている。その意味で、放送という電気通信による情報伝送を考えることは、常に原点として産業・国家・社会との関係を考えることである。
 さてもう一つ、電気通信による情報伝送の技術的特徴は、活字、写真、映画などのように情報を媒体に記録してから配信するのではなく、「記録より伝送が先行した」ことでメディアとして誕生したことである。もちろん、ラジオにおけるレコードやテレビにおける映画は重要なコンテンツ(情報源)であったであろうが、メディア総体としては記録ではなく伝送が先行したことが、放送の原点であるといえる。このことは、電波を有限希少な国家的資源として規制対象としたことと併せて、もう一つの規制根拠になりうる。つまり、[同時性=共時性]という電波による情報伝送の危うさ、管理を超えてしまう特性があるからこそ、免許制度という規制が適応されるという構造につながるのである。
次に、放送は電気通信の一形態であるが、放送を放送たらしめている条件はなんだろう。通信は特定間の情報交換(1対1)であり、放送は不特定多数への送信(1対n)であるとされている。放送の語源であるBroadcastとは、広く種を撒き散らすという意味である(岩波書店のシンボルマークを思い起こすと良い)。こうした形態を可能にするためには、送信側に強力な出力装置が必要とされ、それに比べ受信コストは小さい。ここに「同時性」とともに放送メディアの最大の特性である「同報性」が成立する。通信の場合には、送信コストと受信コストの差は小さく、ネットワーク構築とその維持コストが大きい。このことは、事業構造の相違を意味するとともに、放送の規制根拠としていわゆる「社会的影響力」の技術的要因となる。ただし、この「社会的影響力」は空間的な影響力だけではなく、先に述べた時間技術の要素を考えるべきである。つまり、放送制度の基本は、電波の有限希少性と社会的影響力といわれるが、それは並列的な基準ではなく、放送の技術的な特性を考えれば相関的なものだといえよう。では、放送の社会的存在理由は何だろうか。


Ⅲ.政治・・・近代社会とメディア
 グーテンベルク印刷機とインターネットでは、どちらが人類の文化に影響を与る技術革命だろうか、という議論をしたことがある。もちろんそんなことはわからないことなのだが、グーテンベルク派が結構多かったのは予想外だった。聖書の大衆化はもちろん、それによる黙読の習慣もここから生れたのではないだろうか。また、近代化を目指す革命派の第一の仕事は印刷所の確保だったという。いずれにせよ、マスメディアの発生が印刷機の登場によることは確かだし、複製文化や著作権が語られるようになったのも、それ以後のことだ(但し、複製文化は写真の登場が更に大きな影響をもたらしたのではないかと考えられる)。
 市民革命を経て近代国家が成立する過程で、活字メディアは旧体制への異議申し立ての手段として力を発揮するとともに、国民にとっての共通の意識空間を形成するという機能を担うようになる。こうした観点から、ベネディクト・アンダーソンは国民国家を「想像の共同体」と呼んでいる。つまり、マスメディァは生成の歴史的経緯の中から、異議申し立て機能(その原理が「言論表現の自由」である*4)と共通の意識空間の形成という二つの側面を担うことを求められたのだ。古典的に言えば、それは人が市民であることと国民であることの二つの存在の仕方に夫々対応した機能であるといえるだろう。
放送は登場した時から、先行する活字メディアからその両面を引き継いだのだが、同時性同報性の点で活字メディアより圧倒的に優れていたことから、政治との関係において意識空間の形成に重点を置こうとする傾向を構造的に持っている。そして、その延長上で秩序維持あるいはプロパガンダへの傾斜が発生する。この過程は大衆社会の成立と平行するものであり、放送は「異議申し立て」と「共通の意識空間の形成」という二つの側面を内在させることによって生じる緊張感が失われ、「大衆のまなざしの集約」にその存在根拠をシフトさせようとする力が働く。その一方で、放送の生成過程で生ずるこうした様々なベクトルと相反するものとして、先に述べたように放送のライブ機能は潜在的に秩序維持を超える可能性を持っている。この機能が発揮されるまさにその時が、メディアがメッセージになる瞬間である。このように考えると、放送にどのような規制原理を適用するかは、極めてナイーブな問題なのである。
* 4.これに対して、通信の規制原理は「通信の秘密」(他人の通信の内容を知ってはならな
い)であり、これも権力からの自由の原理の一つである。
参考:「肖像の中の権力」(柏木 博)

 Ⅱ.で述べたように、放送は免許制度の下に置かれていて、その根拠は周波数管理にあり、電波法体系としてのいわゆるハード規制である。一方、マスメディアとしての放送は言論機関として「言論表現の自由」が担保されなければならない(マスメディアにおける「表現の自由」は、個人におけるそれと比べると「国民の知る権利」に対応するものだと考えられる)。ハード規制の下で「社会的影響力」という情報内容に関わる規制をどう位置づけられているかといえば、放送法第3条及び第4条で「編集の自由」を前提にして、「政治的公平性」「公序良俗」「訂正放送」などに関する規定があるが、その他の規制は明示されていない。放送法そのものは、言論の多様性の確保という原理により構成されているが、それは「所有規制」を基本原則とするものであって、「行為(内容)規制」としては「最小限規制」といえるのである。これを法律の知恵というのだと思う。
 しかし、制度はあくまでも制度であって、メディアの本質をすべて反映しているわけではない。メディアの側から言えば、制度すなわち国家との関係を常にあらゆる局面(取材、報道だけでなく経営そのものにおいて)で緊張感を持って対応することが、必要なのである。これは、個別の報道内容の政府批判のことを指すのではなく、メディアとしての存在の仕方を意味する。「同時性・同報性こそが、放送の最大特性だ」ということを掘り下げると、「時間のメディア・空間のメディア」として放送がいかなる存在かという、メディア論としての基本命題を考えることに至るのである。


Ⅳ.産業① 編成・制作
資本主義経済ではあらゆるものを商品化しようとする力が常に働いていて、情報もその埒外ではない。そこは「量」が「質」に優先する(質は量の条件として存在する)場である。とりわけ、広告収入を事業基盤とする放送は、それゆえに「より多くの人に情報を伝達する」という仕組みを常時働かせなければならない。こうした経済原理と「共通の意識空間の形成」という政治的モメントが複合することで、放送の編成行為が成立する。そのメルクマールが視聴率(テレビの場合)である。世帯視聴率1%ということは、全世帯数が約4800万だとすると48万世帯であり、1世帯で2人が視聴していると仮定するとおよそ100万人がその番組を見ていることになる。これは、無線による伝送効率の良さを示している。後で触れるネット系の擬似マス型ビジネスでは、現在の技術条件で経済的に実用可能な同時アクセスの規模は100万が上限という説もある。もちろん、視聴率の精度や「視聴率主義」についての批判はあるが、かりに視聴率に代わる評価基準があるとしても、そこでも何らかの数値が求められるのであって、それはマスメディアの存在条件である。大事なことは、その数値の評価を経営としてどう判断するかということなのだ。
では、「より多くの人に情報を伝えようとする」ことと「より多くの人が求める情報を提供する」ことは同じであろうか。「消費者(すなわち視聴者)オリエンテッド」という考え方がある。「見せたい番組を制作する」のではなくて「人々が見たがる番組を提供するべきだ」ということだ。マスメディアである以上、これは確かにそのとおりである。しかし、そこには見落としてはならないもう一つの大切な要因がある。それは、「何か」を「伝えたい」という意欲・意思(企画への発意)であり、こうしたメッセージ性を欠いた情報(=番組)は、視聴者に到達しないであろうということだ。より多くの人が欲する情報と伝えたいメッセージが組み合わさって、初めて番組が情報として成立する。もちろん、メッセージとは恣意ではない。人々の生きている状況・時代にどう向き合い何を切り取り、どう形にするか、そこに制作者の主体性が問われる。
しかし、放送は個人メディアではない。放送は組織として成立している。それ故に制作者は、制作者としてのメッセージと視聴者との状況についての共有感覚に加え、組織(企業)との関係も認識しなければならない。編成・制作・報道の現場判断は経営意思に直結しているわけではないし、またそうであってはならない。放送事業は免許事業でありかつ株式会社であるため、こうした構造に関わる経営責任が発生するときに、経営は現場の判断を拘束し最終責任を負うが、制作者・取材者・編集者はこの枠組みを承知した上で、企画から放送までの行為を行わなければならない。その過程で、予算の執行やスタッフ編成という組織内システムを動かしていく。取材者や制作者のモラルがしばしば問われるが、組織メディアである放送を構造的に認識し、これに的確に対応することで制作者としてのメッセージを確保することがプロとしてのスキルである。このことは後であらためて触れることになるだろう。
放送番組の制作過程(情報を「形」にする工程)は、どのような構造なのであろうか。ここではテレビの場合を想定することにする。それは、一言で言えば「技能集約型・単品生産構造」であるといえるだろう。例えば、ドラマ制作や大型のスポーツあるいはイベント中継、また選挙特別番組などであれば、技術部門、美術部門などの数十の専門職による100人を超えるスタッフの技能を集約して一つの作品を制作する。そこに、量産効果はない。他の番組との継続性があるとすれば、ノウハウという無形のものの継承である。
こうした制作体制が形成された背景には、①日本においては、テレビ生成期に最大の映像産業であった映画産業がテレビ参入を忌避したため、テレビ局自身が制作能力をもたざるを得なかったこと、②また当初編成で高い比重を占めていた外国テレビ映画など購入番組が、視聴者の生活水準が向上したことによる嗜好の変化とVTR制作の効率化やテレビ演出固有の番組が継続的に企画制作されるようになったことなどによって減少し、テレビ局が独自の制作構造を構築しえたこと、などの事情がある。その後、制作会社が数多く誕生し、テレビ局制作番組と制作会社制作の番組とが競合共存する状況が生れ、現在に至っている。*5.こうした制作環境が、メディアの多様化とデジタル化のなかでどう変化するかについては、二次利用市場のあり方とも関連するが、テレビ産業全体の発展のために両者が公正な関係を形成することが必要であり、そのためにもテレビ局自身が高い水準の企画制作力を持つことが欠かせないと考えられる。
*5.局とプロダクションの関係はについて、契約のあり方や二次流通の権利処理などをめぐり、現在様々な議論が行われている。これについては、別途十分に検証する必要がある。
番組という商品の流通の仕組はどうなっているのだろう。放送は無線による情報提供であるが、民間放送は地域ごとに免許を与えられている(いわゆる東京キー局は、免許事業としては関東地区の放送局である)ので、他の地域に同時に番組を放送するためには、各地域の放送局との間でネットワークを構築することが必要になる。ネットワークは、ニュースの取材と配信を目的として成立したという側面があるが、同時に編成・営業のシステムとして機能している。このネットワークにより、全国番組(ネットワーク番組)とローカル番組のハイブリットな編成が可能になった。なお、ネットワークは放送事業者が自主的に形成したものであり、制度で規定されたものではない。
以上が、放送の制作と編成に関わる基本的な部分だが、衛星放送などの放送そのものの多様化と、パッケージメディア(ビデオソフトやDVD)市場の拡大、またネット配信の成長などメディア環境は急速に変化している。このため、放送番組の付加価値を高め二次利用市場としての他のメディアにおける販売など放送収入以外の事業分野を強化することが、今後の放送局経営の重要な課題になっている。
なお、著作権問題は、デジタル時代のメディアにとって重要な論点なのだが、これについて語るには相当の準備が必要なので、本稿ではあえて触れないことにする。


Ⅴ.産業② 広告
放送の事業構造は、広告・有料・受信料という三種類の収入で区別される。受信料は「NHKという特殊法人を維持運営するための負担金」とされている。有料は、衛星やCATVに多く見られる形態で、視聴者から対価を徴収する。広告は地上放送の一般的な事業形態で、「不特定多数に広く情報提供する」いうマス媒体の特性を利用して広告主からの広告料を収入とする。ここまでは、常識の範囲であろう。
ところで、広告とは何だろうか。商品や企業活動についての告知であるというのも、これまた常識範囲だ。では、広告はいかにして出現したか。ここでも、広告学という興味深いジャンルを学ぶ必要があるが、とてもその余裕はない。以下、推論である。産業革命によって可能になった大量生産と、その条件としての農村から都市への労働力の移動によって出現した大衆社会は、大量消費社会でもある。これが「近代化」というものの一側面である。大衆社会の成立と同時並行的に登場したマスメディアを利用して商品告知を行い、それにより消費を誘発することは、大量生産・大量消費の循環的なサイクルを活性化するために、広告主である企業としては当然の選択であろう。こうして生産・流通・消費という経済活動の基本的構成要因に、広告という要素が組み込まれることになる。
ここで大事なことは、商品の流れと広告(情報=イメージ)の流れが二重化され、イメージそれ自体がモノとしての商品から独立して流通し始めたことである。逆から見れば、情報も商品になったということだ。このことは、ポストモダンといわれた80年代以後に「イメージの時代の到来」として、社会システムや人々の意識に対して極めて大きな影響を与えたのであり、それは既によく知られている。
そしてもう一つ、放送というメディアは広告情報(CM)と番組情報の相関性が極めて高いということである。同じマスメディアの新聞の場合は、紙面構成上記事と広告は夫々独立した情報であり、また収入源も購読料と広告費の二つにわかれている。しかし、放送では提供スポンサーの広告費(タイム)が放送収入であり、視聴者は情報の対価を直接負担しない。広告主から見れば、広告の付加価値と宣伝効率を高めるために番組コストを負担するという構造でもある。なお、提供スポンサーからの広告をタイムCMというが、広告にはその他に番組間で放送されるスポットCMがある。スポットCMも前後の番組視聴率と高い相関性がある。

こうした広告メディアの成長は、消費者の意識動向を把握しつつ、広告主と媒体(例えば、放送事業者)の間を仲介する代理店の占める役割を大きくした。また、消費者(視聴者・聴取者)はどのメディアを選択して情報に接するかというと、経験則として「信頼性」という知恵を働かせるであろう。情報の信用性・信頼性については後述する。この場合、そのメディア総体に対しての信頼性であるが、そこには広告の信頼性も含まれる。各メディアが広告基準を設けているのは、こうした事情を認識しているからだ。
現在、消費者の選択の多様化(差別化)が進み、「マス」という捉え方では有効な広告効果を期待できず、セグメント広告という考え方が登場しているが、その場合でも漠然として「マス」ではないとしても、「層」という概念が適応される程度の「量」が想定されていると考えてよいだろう。もちろん、広告メディアも多様化しつつあることは確かであって(ネット広告費がラジオ広告費を上回るなど)、今後マスメディアが広告以外の事業を重視する傾向は一層高くなるであろう。


Ⅵ.デジタル① 個人の情報発信と放送
 さて、放送の基本的な構造がⅠ~Ⅴで述べたようなものであるとして、今放送はデジタル化という大きな転換期の渦中にある。ここでは、デジタル技術による情報処理の飛躍的発展が、社会的に引き起こす構造変化をIT革命と呼ぶことにしておこう。ではデジタル技術によるIT革命とは何か。
 デジタル技術とは、「符号化」と「圧縮」と「誤り訂正」による情報処理技術をいう(「情報処理」という言葉はいかにも工学的だが、既に一般的に使われていると思うので、そのまま使用することにする)。符号化と圧縮により、大量の情報の蓄積・編集・伝送が可能になり、誤り訂正技術によりノイズも排除できるようになった。一方では、インターネットのように国の周波数管理から解放された伝送路が成長する。こうして、デジタル情報が社会的に定着する過程で、関連機器のコストや伝送コストが下がり、個人レベルで情報処理や情報発信が一般化するとともに、限定的なグループ内情報ネットワークが接続されてインターネットが普及する。こうした情報技術の進歩とその社会化が、放送に与える影響はどのようなものであろう。
 個人が情報編集や発信機能を持つということは自由の拡大であり、特定のメディア事業体から情報交換が解放されるという意味では、望ましいということが出来るだろう。そして、個人として情報機能を持つようになった人々は、初めて手にする手段により情報発信という魅力的行為に惹きつけられていくのは当然である。こうした私的欲望の解放は、特に日本では80年代から90年代において「ポストモダンの典型社会」といわれたように、イメージの消費という社会的下地が形成されていたがゆえに、急速に浸透する。
 だが、情報とは別の見方をすれば危険物である。国家はそれを知っているからこそ、常に情報の規制に敏感なのだ。したがって、個人の情報発信の拡大に対して、国家は公認された情報提供をマスメディアに期待するようになるであろう。マスメディアは「異議申し立て」と「共通の意識空間の形成=秩序維持」の二重の存在理由を持つといったが、デジタル技術による個人の情報発信機能の急速な普及は、「意識空間の形成」という点で、国家とマスメディアを接近させるという思わぬ展開を見せようとしている。特に、免許事業である放送では、このような新たな関係に対してどう対応するかということが問われることになる。
 こうした国家とマスメディアの捩れ現象と平行して、次章で述べるようなIT戦略が国家政策として進行するというもう一つのベクトルが作用しつつある。それは、工業社会の成長が限界に達し新しい産業分野である情報産業の育成が、国内経済の振興と国際的影響力の拡張が国家戦略として位置づけられるからだ。そうだとすればするほど、国家は個人の情報発信の生活化(情報欲望の解放)にどう対応するかが重要になる。おそらく、「情報発信は自由である」ことを容認し、しかし「誰が何を発信し、それを誰が受信しあるいは記録したかを管理する」というのが、ありうる方向であろう。デジタル技術とは情報を記録することにおいて、したがってそれを捕捉するということにおいて、優れた機能を持つからだ。「行為(内容)規制」というありかたは、近代型(工業社会型)の権力行使であり、デジタル社会では「管理」という別種の権力行為が定着するであろう。


放送はこのようなデジタル社会が成熟しようとしている中で、何を考えなければならないかといえば、①「時間のメディア・空間のメディア」の有効性を原点から検証する、②免許制度に依拠した公共性ではなく、自らの行為として公共性を構築する、③メディアと国家との関係を再考する、ということが基本的な論点となろう。
 参考:「IT革命」西垣通
 「自由を考える」大澤正幸・東浩紀
「ポストモダンの思想的根拠」岡本祐一郎
 「プロファイリング・ビジネス」ロバート・オハロー

社会の近代化・現代化の大きな流れと、それぞれの状況におけるメディア行為の概略を図示すれば、図1のとおりになるであろう。

Ⅶ.デジタル② 融合は「入れ子構造」的に発展する
デジタル技術は情報を符号化することで、情報処理を簡素化・効率化した。また、情報を圧縮することで動画像のような大容量の情報伝送の送受信の負荷が軽減された。情報蓄積能力が向上したことで大量の複製が容易に作成可能となり、また分配システム(ルーター)の開発によりほぼ同時に複数端末からの情報入手が可能になった。さらに、大容量情報伝送に対応できるインフラストラクチャー(光ファイバー)が出現した。そして、インターネットという、データ化されかつ通信ネットワークに接続されてさえいればほとんどすべてといっていい情報に対応し、国境さえ越えてしまう情報システムが登場した。また、携帯電話などによるモバイル情報の急速な普及は、人々の生活環境・ビジネス環境を一変しつつある。確かに、伝送路と端末に関していえば、放送情報と通信情報の技術的な区別はなくなりつつある。いわゆるネット社会の成長である。その結果、[(1対1)×n]というマスメディアと類似の情報関係が成立し、通信は[1対1]、放送は[1対n]という区別は無意味だという考え方が登場し、通信と放送の融合が語られることになる。では、放送事業と通信事業は「融合」するのであろうか。
日常生活の感覚から言えば、電話による会話や電子メールを放送と呼ぶことはないであろう。また、情報産業の構造として「他人の情報を伝送する(伝送する情報に介入してはならない)」事業と「自己が情報責任を有して情報発信する(編集権の担保)」事業があり、夫々異なる規制原理が求められる、ということも合理性があると考えてよい。あるいは、送受信に関する技術を規格化することで、視聴者・ユーザーのリスクを軽減し安定的に関連機器を供給する放送(デジュール)と、技術革新のたびに消費者・ユーザーの選択により機器市場を支配する通信(デファクト)というという相異も、短時日に解消されるとは考えにくい。つまり、放送と通信が「融合」してその区別がなくなるわけではない。とすると、「融合」とは何だろう。
先に述べたように、伝送路と端末の共用性は高まるのであって、従ってどちらにも対応できるような汎用性の高い仕組みが求められるのは当然のことだ。この場合、「仕組み」とは①規制緩和により、②ビジネススキームの成立環境が促進され、③情報(コンテンツ)の相互乗り入れが実現する、ということが考えられる。何度も繰り返すが、こうした状況はデジタル情報処理とインターネットの成長と大容量伝送可能なインフラ(光ファイバー)の普及によって生まれたものである。そして、こうした状況を反映して情報分野が「ポスト工業社会」における国際競争力の評価基準になるにともない、夫々の国の産業政策の軸になりつつある。つまり、「融合論」とは、通信と放送を限りなく同一のカテゴリーとして把握することで、新たな市場形成のための規制の見直しを課題とする産業政策的発想に基づく主張といえるだろう。
だが、これまでもしばしば触れたように、メディアの問題を情報工学的に、あるいは周波数管理や産業政策のあり方として捉えるだけでは見えてこない問題があるのだ。メディアの問題を考えるときに、他の視点からメディアを考察の対象とするのではなく、メディアそのものの構造やメディアに内在する問題をメディアの内側からの視線で捉え、その上でメディアに関わる諸課題と向き合おうとする態度を「メディア論」的認識ということにする。メディアに関わる人々、すなわち私たちは、この一点を常に意識しておかなければならない。メディアという言葉と媒体をという言葉をデリケートに扱おうとしてきたのも、ここに関わる。メディア論的に融合を考えるとはどういうことなのか。以下、放送と通信の関係をテレビとインターネットの関係として考えることにしたい。
 新しいメディアは先行するメディアとの関係で自らのポジションを選択するという。これは、一般的に新技術の社会化(産業化と生活化)についてもいえることだ。では、テレビとインターネットの関係は、どのように展開するかのだろうか。図2を参照していただきたい。
   
 


図2   
 [テレビとインターネットの入れ子構造]
「テレビとインターネットは入れ子構造を形成する。テレビはインターネットを構造的に取り込むことで変化を求め、インターネットはテレビを環境として向き合うことにより自らの将来を選択する。この入れ子構造は、お互いを取り込もうとすることで情報社会の外延を広げ、その隙間(地の部分)を埋めていくことで融合が進展する。このようにして、入れ子構造そのものが成長する。」

情報環境を宇宙に喩えれば、テレビはその中心として圧倒的優位な地位を占め続けてきたが、インターネットの登場はこうした構造を変えようとしている。第一に、マスメディア(特に、テレビ)とは別に個人が情報入手をする有力なシステムが成立した。第二に、個人からの情報発信が可能となり私的通信だけではなく、社会的な情報提供が可能となった、第三に同一情報(あるいはコンテンツ)の二次的流通の新たな市場形成が進展した。第四にマスメディア(=テレビ)の情報源としてインターネットが有効に機能し、マスメディアのシステムに組み込まれた。かくして,テレビはインターネットを構造的に取り込むことで自らを変化させなければ、情報環境の進展に対応できなくなる。
一方、インターネットは、既に良く知られているように学術や軍事の情報ネットワークとして成立し、そうしたネットワークを相互に接続しつつ、自己増殖的に成長した。さらに、発展過程にあった通信インフラの高度化を利用し、また通信の国際化の時代という流れと相関し、国境を越える情報システムとして発展した。しかし、テレビと比較するとインターネットは国家による規制や管理に対峙するという経験が乏しい、というよりはそうした必要がなかったといってよい。もちろん一方では、個人情報発信によるジャーナリズム行為としてブログ型のメディア機能も成長している。しかしそうした機能も含めて、インターネットという仕組そのものは融通無碍といってもいいほど自由なものであり、それがインターネットの産業的・生活的・メディア的可能性を広げてきた。しかし、ネットビジネスにおいても[(1対1)×n]型、すなわちマスメディア(=テレビ)の類似構造が市場として期待されるようになり、「規模」が求められるとともに、インターネットはテレビのビジネススキームやノウハウを取り込もうとし、テレビとの関係を相補的なものから侵蝕的なものに変化させようとしている。
このように考えると、「入れ子構造の成長過程=融合の進展」のなかで、テレビの課題は、「共通の意識空間の形成」という社会的機能とコンテンツ市場の拡大という経済行為の一体化構造の合理性について、客観的な根拠を示すことなのである。言い換えれば、公共性と市場性についての論理が求められているということだ。「今までそうだったから、これからもそうあるべきだ」ということでは説得性にかけるであろう。
インターネットは、マスメディア(=テレビ)類似型に傾斜すればするほど(ビジネスとしてはそういう力学が働くのは当然であるが)、今まで経験しなかったメディアとしての社会的機能、すなわち情報責任や社会的影響力についてのあり方が問われる。その結果、「通信の秘密=他人の情報に介在しない」という規制原理の外に踏み出すことになり、初めて国(権力)との関係を自ら明らかにすることが求められる。
テレビとインターネットは、伝送効率(無線による同報性の優位性)や伝送特性(双方向性の優位性)によって当面は異なる情報システムを構成しながらも、両者が重複する分野は拡大していくことは間違いない。こうした傾向に重点を置く「融合論」は、産業政策的発想によるものだと先に述べた。しかし同時にメディアの政治学として融合現象をどう考えるかは、極めて重要なのであり、このことをメディアの中から提起するのが「メディア論」的発想なのである。その意味で、「メディア論」から産業政策は生まれないが、「メディア論」からメディア政策を撃つことは出来るし、撃たなければならない。それが、メディアの自己認識であり、存在証明でもあるのだ。
参考:「デジタル・メディア社会」水越伸
 「日本近代技術の形成」中岡哲郎

Ⅷ.「層」と「系」…デジタル時代のプロフェッショナル 
ところで、この20年ほどの間(思想的に「スカ」といわれた80年代と、その後に続いた経済的に「失われた」10年)に、デジタル世代は確実に社会的「層」として成長した。彼らはテレビとネットを区別せず、あるいは区別したとしても自由にそれぞれを使いこなす。それが日常であり、融合は感覚的に定着しつつある。放送局に就職する人々も、こうした「層」を構成するのであり、また経済・政治・生活もこうした「層」の影響力は広がりこそすれ低下することはない。つまり、「融合とは何か」ということはテレビにとって極めて重要なことであるが、同時にそれを「アタリ前でしょ」と思い、またその設問自体を無意味に思う「層」が中心的に社会を構成するということだ。ということは、「昨日はネットビジネス、今日はテレビ」という職業選択の自由度も高まる(=職の融合)ということでもある。「それが時代の変化というものだ」ということも出来るだろう。しかし、職業としての放送が存在することに変わりはない。そうだとすると、放送のプロについて考えることはやはり必要なのである。
 デジタル時代の放送のプロとは、放送の存在理由を自覚することから始まる。しかし、それはかつてのような放送中心主義ではなく、「入れ子構造」として示したようにネット社会の中の放送のあり方を考えることである。
 先に、情報環境を宇宙にたとえれば、これまでは圧倒的にテレビが中心に存在してきたということを述べた。ここでは、情報環境を「系」として考えてみよう。その場合、「系」とは中心から周縁に、あるいは支配と従属というような関係を意味しない。「××党系」とか「系列会社」の「系」とは違う。それは、生態系*5の「系」のように考えたほうが良い。
*5.せいたい‐けい【生態系】(ecosystem) ある地域の生物の群集とそれらに関係する無機
的環境をひとまとめにし、物質循環・エネルギー流などに注目して機能系としてとらえたもの。(広辞苑)

 たとえば、「森林系」とは、潅木・草・羊歯などの植物や獣・小動物・鳥類・昆虫などの動物、菌類も含めた生物群と水・空気などの循環を含む総体としての環境をいうとすれば、「情報系」とはまさにさまざまな浮遊する情報とそれを液状や固形と言う形にしてやり取りをする各種のメディア、およびそれらを消費する人々で構成される全体であるといえるだろう。こうした情報系のシステムがデジタル技術によって変動しつつある中で、放送がどのような機能を果たし、どのような位置を占めるのか、それを考えるのが放送のプロフェッショナルということだ。答えは容易に出てこないだろう。だが、「一般解のない困難な問題について考え抜くことは、しばしば一般解にたどりつくより以上の知的利益を私たちにもたらすだろう」(内田樹)というではないか。少なくとも、放送を職業として選択し、表現や伝達の場に立つという、ドキドキするほど魅力的な経験が出来る幸運に恵まれた放送人は、「自分の職業が何なのか」をまじめに考えるくらいのことをしなければ申し訳ないというものだ。
放送のプロにとって大切なことを一つだけ挙げておこう。自らが伝えたいメッセージがあるとして、その時に「何をしなければならないか」あるいは「何をしてはならないか」を熟知していることである。これはモラルの問題であると同時に、スキルの問題である。スキルはテクニックではない。では、スキルとは何か。スキルとは、制作者である個人、表現組織(言論機関)である放送局、経営体としての会社という関係を認識することから始まる。個人の発意がなければ情報を形にする行為は始まらない。しかし、テレビ・ラジオは組織として機能することで情報を形にする。しかも、放送局は企業として経営リスク(利益の確保と社会的責任)を負っている。この三者の間の相反するベクトルが生む緊張関係が成立することで、私企業でありかつ免許事業である放送局は放送局として自立することが可能になり、制作者はこの関係を的確にハンドリングすることで、メッセージを視聴者に到達させることが出来るのである。情報の「系」のなかで、放送が他の情報メディアと共棲しつつ、独自のメディア活動を営むためには、放送を職業とする私たちはプロのスキルとしてこうした認識が求められているのである。

Ⅸ.信用…続・デジタル時代のプロフェッショナル
 情報は、それを必要とする人がいることで情報になる。このことは、最初に触れた。では、それが必要な情報として信用できるかどうかは、どのように判断されるのだろうか。
 第一に、その情報によって世の中(生活から世界まで)について解釈できること(説得性)。第二にその情報に基づいて行動した結果、それが有効であるこ
とが確認されること(有用性)。説得性や有用性の経験が蓄積されることで、そのメディアが発信する情報は全体として信用してよいという蓋然性が認知されることになる。第三に、「みんな(大多数の人)が信用するから、自分も信用してよい」と考えること。これは、ケインズのいう投機における美人投票論と類似の構造といえるだろう。こう考えると、信用というのは経済であれ、情報であれフィクショナブルなものであるともいえそうだ。
さてそうだとすると、今起こっているメディア状況は何なのであろうか。情報の量はマスメディアに加えネット上の情報やモバイル系の情報を加えれば膨大なものになる。それらの情報は、視聴者・ユーザーにより消費されているが、しかしそれは信頼性や有用性ではなく、ただ消費されることを自己目的にしているのであって、まさに享楽的行為になりつつあるのではないか。つまり、情報に対する信用の程度は、経済の世界で言うインフレーション現象のように見える。それは情報価値の下落とメディアの信頼度の低下であり、その先に情報の恐慌が待ち構えているのではないかという危機的な予感さえ感じられる。その中心にいるテレビについていえば、ネット社会の成長による危機ではなく、こうした情報環境の構造的危機の方が問題であるように思われる。昨今、政治の世界で劇場型と呼ばれる現象が見られるが、それもこうした情報消費行動が反映していると考えてよい。
 確かに一方では、テレビの視聴時間は1日4時間程度というデータがあり、この数字に大きな変化はない。その意味では、テレビはきわめて強いメディァであり、したがって、情報信用の回復の可能性は相当程度存在すると考えてよい。それだけ多くの接触機会があるということは、視聴者に情報提供する場、つまり信用というフィクションを再構築しかつ持続するチャンスがあるということだからだ。但し、マスメディアとそれが依拠しようとする視聴者(大衆)の関係は、安定的なものではない。特に無料広告放送において、両者の間には契約関係は存在していない。人々は、放送情報あるいは放送メディアそのものに対する何らかの期待があるから接触するのであるが、それが満たされなければ何の手続きも求められずに見捨てることが出来る。その意味で、人々はメディアに対して何の責任を負うものではない。まして、個人による情報編集や情報発信が自由になり、データベース検索という新たな情報入手の方法が開かれたことにより、情報編集とは何か、マスメディアの信用性は如何に担保されるかが問われることは避けられないであろう。視聴者(大衆)とは、まことに矛盾した、言葉を変えればメビウスの輪のような存在なのである。
このようなメディアにとって困難な状況を引き受けつつメッセージを発信しようとすることが放送のプロの基本条件なのであり、それが放送の可能性を新たにする。その中で、日々「情報を形にする」たびに未知との遭遇を繰り返すその新鮮な驚きがプロをプロとして育てるのであり、その驚きの場である放送メディアとは何かを考え抜くことにより、時間のメディア・空間のメディアとしての放送の新たな可能性が見えてくる。新鮮な感覚と考え抜く力を失った時、プロは失格し、放送はメディアとして衰退し、放送局は存在理由を喪失するのである。
 
Ⅹ.先人たちからのメッセージ
 放送とは何かということを、自問しながらここまで書いてきた。うまく答えが出ていないこともたくさんある。未消化のまま書いているため、読めば疲れるようなところも多いだろう。少し個人の関心に引き寄せすぎているということもある。だが、1964年、テレビが産業として絶頂期に向かおうとする時期にこの世界に入り、いまデジタル革命により放送が大きく変容しようとしている時代までさまざまな形でテレビに関わってきたが、いつもテレビジョンと自分との関係は何なんだろうと考えるということが、通底奏音になっていたように思う。これからも引き続きここで書いてきたことを考え続けていきたいと思っている。
最後に、テレビのことを考える中で出会った先人たちの言葉のいくつかを記録しておきたい。これから放送を職業とする人たちが、これらの言葉をどううけとめどう考えるかということはわからないが、少なくともこれらの言葉はテレビジョンというメディアと格闘し、優れた感性でテレビジョンを凝視し、そしてテレビジョンについて考え抜いた結果、探り当てたものであることは間違いない。

てれびじょんトハツヅメテイエバわが身のことデアル
ソレハイツモ真正面から
ヨリヨク描くノデハナク
ヨリヨク見るタメニ存在スル
・・・
コレハ固体デハナクテ
完全ナ液体デアル
・・・
和田勉「テレビ自叙伝」


ぼくらはテレビが<時間>であることを知っている。・・・<時刻><持続><日常><俗><組織><超空間>・・・そこに一体いかなる<表現>が成り立つのか
・・・「テレビ=わたしはただの現在でありたい」。
萩元晴彦 今野勉 村木良彦
「お前はただの現在に過ぎない/テレビに何が可能か」


(番組は)太陽と水と土地があれば育つものではない。掘ったら出てくる鉱石などとは全くちがうものなのだ。番組とは、若い創造力とすぐれた才能の集まりによって開花するものなのだ。
それはさわるとくずれるほどデリケートな取扱いを要するものなのだ。
乾 直明「ザッツTVグラフィテイ」

最後の最後に、歴史についての優れた洞察を記しておこう。テレビ(放送)がこの洞察にどう答えるか、それはテレビ(放送)そのものが、つまり制作者であれ、あるいは経営であれ、それを行為で示すしかないと思うのだ。

「富は獲得するものであると同時に、何らかを失うものであるのかもしれない。人はあれもこれもすべて所有することはできないのである。スペインは新大陸から莫大な富を獲得した。そのかわりにスペインは宗教的情熱に燃えた強靭な騎士層や、ようやくにして発展せんとしていた中産階級的ブルジョアジー、そういったスペインの真の富を失ったのであった。帝国の外延が拡大すればするほど、帝国の内部の弱体化が進行する。この歴史のアイロニーからスペインもまた免かれることは出来なかったのである。」
(「イカロスの墜落のある風景・欧州経済史紀行」舩橋晴雄 )

「テレビジョンとは何か」、「テレビに何が可能か」「テレビ的表現とは何か」


「お前はただの現在にすぎない テレビに何が可能か」
(萩元晴彦 村木良彦 今野勉 田畑書店 1969 )
 「テレビ――お前はただの現在に過ぎない」とは、即ち、テレビの同時性(即時性)に対する「権力」及び「芸術」からの否定的非難の言葉として、ぼくらに発せられているということなのだ。
 「時間」をすべて自ら政治的に再編したあとで、それを「歴史」として呈示する権利を有するのが「権力」だとすれば、そのものの「現在」が(を…引用者)、as it is(あるがまま)に呈示しようとするテレビの存在は、権力にとって許しがたいだろう。「テレビ、お前はただの<現在>にすぎない。お前は安定性を欠き、公平を欠き、真実を欠く」――それが体制の警告だ。テレビが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ。
 「時間」をすべて自ら選択し内面化したあとで、それを「作品」として呈示することを「芸術」とするならば、時間を追うことによってのみ、独自の表現をもたらそうとするテレビは、芸術の第一義的本質を欠いている。非選択的、非永遠的、非作品的……etc。それは、いわゆる「芸術」からみれば、「テレビ、お前はただの<現在>にすぎない」となるだろう。
 即興を本質とするジャズの演奏そのものは、作品を目指さない。
 ジャズが堕落するときの第一の形態はジャズが芸術になることだ(平岡正明)。テレビが堕落するときの第一の形態はテレビが芸術になることだ。(誤解しないでほしい美しい映像によるドラマを駆逐しようというのではない。もしそれがあったとしても、それを包み込む全体としてのテレビをいっているのだ。そして、その演出家も全体としてのテレビを意識せざるを得ないことも確かだ。)
「黒人にとって、ジャズは一般的黒人文化のほとんど直接的な表出である。」(リロイ・ジョーンズ)。大衆にとって、テレビは一般大衆文化のほとんど直接的な表出である。
「テレビ、お前はただの現在にすぎない」という否定は、そのまま、こうして一挙に裏返しにされる。「イエス。テレビ=わたしはただの現在でありたい。」
テレビはこのとき、権力のための情報機関であることから身を辛うじて引き離し、芸術のための表現媒体であることの誘惑からも辛うじて身を守ることができる。」
テレビは、権力によっても芸術によっても再編成されることを欲せず、現在そのものを創り出していく限りにおいて、自らの未来を決定しうるのだ。そして、それをなしうるのは、もちろん、テレビそれ自体の機能ではなく、テレビの機能と己をかかわらせた新しい表現者、テレビマンであろう。彼らのかかわる<現在>とは、そのとき、物理的現在ではなく、彼らの<内なる現在>であろう。

※ 「お前はただの現在にすぎない」はロシアの革命家トロツキーの言葉として登場する。
この長く引用した文章の前にこうある。
二〇世紀が始まったばかりのシベリアに、二〇歳の革命的楽観論者がいた。一九世紀は楽観論者をあざむいた。だから彼は、「二〇世紀」に未来を賭けた。その二〇世紀がやってきた。
この新しい世紀は、しかし、出現した瞬間に、憎しみと殺戮、飢餓と流血をもたらした。血まみれの二〇世紀は、若き楽観論に怒号する。
「降伏せよ、哀れな夢想者。お前が長いあいだ待っていた二〇世紀、お前の<未来>であるこのわたしがやってきたのだ」
「いや」と卑下することを知らぬ楽観論者は応える、おまえは――おまえはただの現在にすぎない。(I・ドイッチヤー編 山西英一訳「永久革命の時代」より)。

その若者の名をレフ・ダヴィドヴィッチ・ブロンシュタイン、のちの名、トロツキーという。
<お前はただの現在にすぎない>という叫びは、若きトロツキーが、未来に向けた夢の逆投射であった。
もし、「テレビ」が僕らの前に立って、
「降伏せよ、哀れな夢想者。お前が長いあいだ待っていたテレビジョン、お前の<未来>であるこのわたしがやってきたのだ」と叫ぶなら、ぼくらもまたトロツキーのように叫び返さなければなるまい。
「お前は未だテレビならず。お前はただ現在そのようにあるだけだ」と。
だが、僕らは原典の意味をなぞるために、この言葉を表題としたのではない。
※ 下線は原文では傍点。

この時、萩元晴彦39歳、村木良彦34歳、今野勉33歳。
この若さとエネルギーに支えられた想像力が、テレビジョンを作ろうとしていた。「テレビジョンとは何か」、「テレビに何が可能か」「テレビ的表現とは何か」、という問いはこうして生まれたのだった。
テレビジョンは永久運動である・・・と、思う。
そして、<お前の未来であるこのわたし>、即ち<テレビジョンの現在>である21世紀のテレビは、あの時のテレビから問われた問いにどう答えるのか。<お前は未だテレビならず。お前はたた現在そのようにあるだけだ>、これを認めるや否や。

テレビジョンとは思想である。
それは、きちんと包装された詰め合わせセット=パッケージの対極にある。


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