HOME > Special > 東アジア文化の多層化とその可能性/ソフィアシンポジウム「日韓中相互理解とテレビプロクラムの役割」の論点  前川英樹

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 今回の「日韓中テレビ制作者フォーラム」の中で、いくつかの注目すべき発言があった。  一つは、九年間の保守政権下で言論機関への抑圧が進んで軍事政権下に戻ったような状況が生まれ、その間に任命されたテレビ局トップの交代を求めて番組制作の中断などの抗議ストがいま現在も続いている、という韓国からのレポートがあった。また、中国では文化大革命の經驗がドラマ企画のモチーフになるというが、今の体制でどのようにモチーフ化されるのだろうか。
 その中で、番組をめぐる議論ではなく、フォーラムの共同開催者である上智大学メディア・ジャーナリズム研究所の企画によるシンポジウム「日韓中相互理解とテレビプロクラムの役割」についてレポートしたい。
このシンポジウムのパネリストからは、テレビ番組やデジタルコンテンツの市場分析や共同制作についての期待、そして日韓中に続くアジア各国のデジタルコンテンツの活性化と人材育成などについての発言が続いたが、韓国延世大学出身で立教大学助教授の黄盛彬氏から以下のような鋭利な問題提起があった。個人的関心としても興味深いものがあるので、そこに焦点を当てることにする。

 黄氏の発言要旨は以下の通りである(と、私は理解した)。
 冷戦構造崩壊後、文化の領域では「文化帝国主義」(Westernization)という現象が支配的になった。例えば、ハリウッド型のグローバルな文化構造がそれである。これに対抗して、各地域の文化の固有性を志向する動きが現れるようになった。これを「脱中心化」(一つの中心に支配されまいとする動き)という。それぞれの固有の文化が、歴史的地理的に接近する領域で、近似性、類似性、共通性、を基盤に相互に越境する現象が見られようになった。その典型がいわゆる「韓流」である。それは中国でも日本でも起きた現象だが、中国では都市空間において、日本ではメディア空間として顕著に見られた。これは、それぞれの中流化・都市化の差の反映であろう。この現象は、その後日韓関係の変化により、政治的ナショナリズムを反映することになり、いわゆる「フジテレビ・デモ」という現象を生むようになる。
 ところで、東アジア文化は儒教や漢字という共通性・類似性を持つといわれるが、そして確かにそのような構造はあるのだが、それは根源的なものではない。それらをアプリオリに前提とせず、また中心の分散化(多中心)として認識するのでもなく、[文化の多層性]として捉えることで、そこからトランスナショナル(国家間関係=インターナショナルではなく、国家を超えた関係)としての文化交流が可能になる。
  多少牽強付会なところもあるだろうが、黄氏の問題提起は概ねこういうことだったと思う。

 ここでいくつかの重要な指摘を捉え返してみよう。
① 脱中心の動きは多中心という傾向を示すが、それよりも「層」という概念でとらえること(多層空間としての文化)により、文化の共通性と個別性の関係をより構造的に理解することができる。
② この「層」という概念を手掛かりにすることで、個別の文化を(日韓中などの)国家間の関係としてではなく、国家を超えた文化交流(トランスナショナル)として把握するという視点が成立し、そこに文化の創造性あるいは市場としての可能性・生産性が生まれる。
③ このように、いま個別と共通、中心と周縁、など二項対立的なアプローチを超えて東アジアのメディア交流を実現する、そのための方法が必要なのだ。
 さて、私の関心はその先にある。
 ある地域の広がりで(例えば、東アジア)文化を「層」として捉えることのプラス価値を評価するとして、近代社会の政治的単位が国民国家である以上、「脱中心」の力学はナショナリズムと接点を結ぶことになる。この時、政治と文化は不可分であることが否応なく明示される。「韓流」が、日韓関係の中で別のベクトルによる行動につながってしまったのは、そういうことであろう。
では、私たち(放送という文化に関わっている者)には、その時どのような選択があり得るだろうか。政治が権力の行使として立ち現れる限り、それは文化を支配しようとする。それは善でもなく悪でもなく、権力とはそのようなものであるからだ。そうだとすれば、文化は政治から自立しうるかという一点に問題は収斂される。それは、韜晦でもなく逃避でもなく、東アジアという地域で生活し表現行為を背負った私たちが、その地域の歴史と地理の中で何に向き合うかの問題なのである。
 その上で私たちの困難さは、近代社会という仕組みが、人間の共同性の放棄あるいは喪失の中から成立したことから、時として人々に激しい抒情を呼び起こすものだという点にある。厄介なことに、近代社会の表現行為は、しばしばこの抒情性=浪漫主義として人々の心を揺さぶるのである。近代国家のナショナリズムは、こうして浪漫主義と結びつき、「層」としての文化の歴史と地理を破壊しようとするだろう。私たちは、それを日本の近代化の中で経験したはずである。
 私たちが、長い間に「層」として形成してきた文化の多様性と共通性を、どのようにして継承し、政治的行為に拮抗しつつ新たなコミュニケーション空間を創出できるだろうか。文化とは、そのような緊張感に晒され続けることで「文化」になるのであろう。黄氏の提言は、このことをと強く感じさせるものだった。

 6人のパルリストの発言とモデレーターの上智大学メディア・ジャーナリズム研究所長音好宏氏の取りまとめを省略して、このように集約的にレポートすることをご容赦頂きたい。

 尚、フロアーから「日韓中の文化は共通性が強い。今や朝鮮半島の南と北の差の方が大きい」という発言があったことを付記しておきたい。その時、ほんの数秒の間会場に緊張が走った、と私は思っている。


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