HOME > Special > <放送メディアの構造と制度>への問い返し・・・ 「政治的公平性」について、もう一つのアプローチ 前川英樹

Special

以下は、JNN各局の報道情報担当者有志が発刊している<J-Spirits> 第150号に寄稿した内容を加筆修正したものである。「規制改革推進会議」が審議してきた放送と通信の融合と法制度に関する議論が意味するものを、少し違った角度から捉えてみようと試みた。私の従来のテレビに関するいくつかのアプローチを整理するという意味もある。これを大幅に手を入れて放送人の会会報に掲載することにした。
[Ⅰ]
 <J-Spirits>150号の原稿の依頼があった時に、今は放送に直接かかわっているわけではないし、メディア環境の変化からも遠くなってしまったので、何を書けばよいのだろうかと思いあぐねたのだった。しかし、私にとってほとんど最後の仕事と言っていいであろう「竹中懇」から10年余、再び<通信と放送の融合と法制度>の議論が話題になっていることもあって、何かを書く意味があるかもしれないと思ったのだ。<J-Spirits>創刊号の巻頭原稿を書いたという縁もある。
さて、政治状況の反映だろうか、「規制改革推進会議」の答申に「放送法4条」2項「政治的公平」規定の廃止は盛り込まれないことになった(6/5答申)。とはいえ、この論点の持つ意味は大きい。放送法と憲法の関係という観点からも、またインフラとコンテンツという今となってはいささか新鮮味が欠ける問題や「通信の秘密」と「表現の自由」という極めて原則的な論点としても、はたまたNHKと民放という何度も繰り返されてきた関係論としても、“それ”について語ることはできるだろう。何よりも、「『政治的公平』規定は必要」と放送事業者が言った途端に、それを罰則規定として認めるのかという反問があり、政治的にはそのように作用するであろう。狡猾な仕組み、仕掛けである。
[Ⅱ]
メディアにおける言論表現に関する最も基本的な条件は、「虚偽を伝えない」、「他者の人格を傷つけない」そして「タブーを設けない」ことだと、私は思っている。それは、国民の知る権利に応える前提でもある。そうだとすると「政治的公平規定(フェアネスドクトリン)」に拘らなくてもよいのではないか、という考え方もありうる。「政治的公平」規定が必要だと事業者がいうことは、言論機関が自ら規制を求めることになり、それは自己矛盾ではないかともいえる。
しかし、現代社会ではあらゆることは政治から逃れられない。すべては政治的ベクトルの中にある。この問題の議論も真空地帯で行われるものではない。「狡猾な仕組み、仕掛け」といった所以である。
規制緩和論から見れば、放送用周波数も民間が使用すればそれは[経済財]であって、市場原理に委ねられるべきであり、それを通信と区別する理由はなく、したがって規制原理も経済原則に委ねられるべし、ということになる。しかし、こうした政策そのものが極めて政治的なのであって、例えば「政治的公平性」は規制緩和という経済原則から見て不要であるだけでなく、それを撤廃することで政権による政策とイデオロギーのための情報機関の<場>を放送波に与える仕組みとして機能する。では、反政権にも同様の<場>が与えられれば公平ではないかと言えないだろうか。確かに、それこそが「政治的公平」規制撤廃論の論拠であろう。
[Ⅲ]
あらためて「政治的公平」規定の意味は何か、何故それは必要なのか、そこから考えるしかない。以下、地上波テレビ(現放送法でいう「特定地上基幹放送」)の問題として話を進めたい。
「放送法4条2項(政治的公平性)」問題へのアプローチにおいて重要なのは、この法の理念=存在理由を踏まえることである。この4条は理念規定であり、「公平」とは<権力との距離の明示=権力の広報機関の拒否>ととらえるのがほぼ通説とされている。4条は、1条の放送法の目的を受けて構成されているのであって、1条2項「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」に対応する。
異なる政治的主張については、4条4項で「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とある。この項もまた「政治的公平性」を重層的に構成していると読めるであろう。
そのうえで、1条2項に「自律」とあるのは、4条の各規定は放送事業者が自ら律するものであるという意味と解することができるのであり、そこに4条が倫理規定とされる根拠があると思われる。私は法の専門家ではないが、その程度の理解はできる。
あえて繰り返せば、「政治的公平性」は放送法の基本概念を構成するのであり、それは放送事業者が自律的に実現すべきなのであって、その撤廃は、権力によるメディアへの介在を許容することになる。自分の意見・思考にあった情報だけ選択する傾向は、ネット社会になって顕著になっているが、世界には多様な意見があり、それを認識することこそ多様性と共同性を成立させるために欠かせない。放送における「公平」とは、権力との緊張関係の下での多様性を自ら確保することなのであろう。その意味でも、「政治的公平」は規制というより理念なのである。
言うまでもなく法は社会的拘束力を有するが、その前提として法の理念=存在理由がある。放送法はその基本において極めて理念型の、すなわち戦後民主主義における典型的な法であり、憲法理念がまことに直接的に反映されている法なのである。ということは、放送法の存在そのもの、その基本理念それ自体が「戦後レジームからの脱却」とバッティングするのである。
「政治的公平」規定が必要だというときに、テレビというマスメディアがその優位性を保持するための主張ではなく、原理的な問題として捉え返さなければならない。そうでないと、マスメディアのエゴとされるであろうし、「狡猾な仕組み、仕掛け」にはまるであろう。
ついでに言えば、 放送局は新入社員教育、管理職研修、役員就任時、などなどで放送法を学習するべきでる。(※1)
[Ⅳ]
 しかし、この問題を巡る議論として、こうした政治力学や法的アプローチではなく、放送というメディアの構造、在り方など、メディア論的と言ってよいであろう問題の提起が希薄なのが気になる。では、私たちにとって一体何が語られるべきなのだろう。いくつかの<論点になるべき点>を取り上げてみよう。
① マスメディアは近代社会の登場に深く関わる。市民社会が旧権力と戦うために手にした「言論表現の自由」の意味は大きい。同時に、その市民社会は国民国家という形態と二重構造を形成し、そこでは近代的メディアは共通の言語空間の形成と維持という機能を果たしてきた。そこにナショナリズムが成立する。(※2)表現の自由(市民社会)と共通の言語空間(国民国家)との関係(乖離)にメディアはどう関わるのか。
② 放送は周波数管理(免許制度)体系の下に置かれる。それは周波数の希少性や混信防止という技術的理由によるものだけではなく、情報のライブ性(同時性/共時性)というメディア特性による。国家は時間管理の危うさを先験的かつ先見的に知っていたのである。
③ そもそも放送法体系が施設(無線局)免許(ハード規制)(※3)を基に構成されているのは、憲法における「表現の自由」との関係を法技術的に巧みに取り込んだものであろう。番組編集に対して間接規制であり、無線局としての免許主体である放送事業者が番組編集責任を負うとされたのである(ハード・ソフト一致原則)(※4) (※5)。その意味を踏まえて<4条問題>は論じられなければならない。
④ このように、放送は構造的に規制が組み込まれている。しかし、だからこそ<自由>の意味をさらに深く問い返すことができるはずである。
⑤ 放送は公共的な存在だと放送事業者は言い、またそのように受け止められている。その
理由は何か。しばしば「公共の電波を利用するから」というのが、その根拠とされる。しかし、それはほとんどトートロジーである。一方、<規制緩和>の立場からは、放送も市場原理に委ねられるべきであり、市場が最適解を導くであろうと語られる。しかし、放送において市場が最適解を出すとは限らない。放送の公共性は人々の共同性とともにあり、それを基にして行為として示されるべきであろう。
⑥ 放送は、同時的により多くの人々に情報を伝えることができるメディアである。しか
し、そうしたメディア特性はネット系の技術進歩とその社会的定着により、相対的なものになりつつある。こうした状況で、放送メディアが「これこそ放送の根底にあるもの」だというべきは何かといえば、それは<情報編集責任>ということになる、と私は考える。権力がメディアに対してフェイクニュースという言葉を投げつけるこの時代において、情報編集責任とは何か。
[Ⅴ]
「メディアは出来事の一部であり、テロの恐怖の一部であって、双方に作用しているのだ。」と語ったのは、ジャン・ボードリアールである。(「テロリズムの精神」季刊<環>8巻藤原書店 2002.)また、鷲田清一氏は「テクストの外などというものは存在しない」というジャック・デリタの言葉を引きつつ、「いかなる歴史的事実も語られたもの、つまりはテクストとしてしかありえない。事実は解釈され、編集されて伝えられる。」(「折々の言葉」朝日新聞2018.3.3.)と書いている。
<事件>があり、それを「客観的」に伝えるのがメディアの仕事、というわけにはいかない時代に私たちはいる。情報編集責任とは、そして放送の公共性とは何か、いまあらためて放送メディアが自らに問うべきなのだ。それが、メディアの自立であり自律であろう。そこから、状況と制度への問い返しが始まる。

※1. 25年以上も前、ディア企画部門にいた時に放送法、放送制度、そして放送行政について田代功氏から懇切丁寧な解説を受けた。田代氏は郵政省から放送業界に移られ、後にローカル局の経営に携わられた。同氏は「役人は法律で考えます。政府与党よりも法が大事なのです」としばしば語っていた。
※2. ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行」参照
※3. 施設免許に対して、事業免許はサービス内容を直接規制対象とする。
※4. 現放送法でいう「特定地上基幹放送事業者」である地上テレビ放送も、ハード・ソフト一致(施設免許=無線局免許)である。
※5. BS放送はハードとソフトが分離されているので(ハード事業者はB-SAT)、BS会社はソフト事業者として認定を申請/更新することになるが、その際の主たる審査対象は放送事業者間の資本関係(所謂「マスメディア集中排除原則」)である。


エントリーリスト