HOME > Special > これは過酷な映画である。「万引き家族」(監督 是枝裕和)を観た。

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登場人物たちは、近代人として思考したり、市民として自立した意識を持っているわけではない。・・・彼らは貧しく、孤立し、分断されて生きていくことになる。私たちが今生きている状態は、バラバラにされた<この一家>と同じなのだ・・・と、思う。

 カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したことはもちろん知っていた。一、二の新聞の映画評も読んでいたが、特に批評として気に掛けることもなかった。劇場には大分早く着いてプログラムを買ったが、パラパラとページを捲るだけにした。つまり、ほとんど前もって何かの情報も知ることなく上映を待った。そうしようと決めていた。だから、観始めて人物の人間関係にちょっと戸惑ったのは確かだ。
 是枝監督が<家族>をテーマにしてきたと言われていることは知っていた。だが、観ていて(観終っても)思ったのは、<家族>あるいは(「万引き家族」の場合は)<疑似家族>は、テーマではないということだ。それは、モチーフあるいはマチエールといったものであろうということだった。「テーマよりもモチーフを、モチーフよりもマチエールを」と言ったのは、詩人谷川雁だった。
 観おわった後に読んだプログラムで、内田樹は<「この映画の主題は何か」という問いを作り手に向けることにはあまり意味がない(私が言い出したのではない、ロラン・バルトという人が60年ほど前にそう宣言したのである)。>と書いている。たまたま、内田樹の「寝ながら学べる構造主義」という新書を読み終わったところだった。もちろん、寝ながら学べるはずはないが、バルトのテクストという概念については以前から少し関心があったので、私なりに内田氏のコラムは興味深く読んだ。このことは後でまた触れる。


 この疑似家族として集団生活をする人たちの、空間(その狭さ)とそのリアリティー(汚し)に感心した。生きることの息苦しさ、切なさはこの空間設定を通して語られる。それは絶対的だ。この映画の成功(の一つ)はここにある。ここで暮らすメンバーの一人として認知され、参加するために彼らは、(ばあちゃんの年金の他に)大人も子供もそれぞれに辛うじて仕事あるいは仕事らしいことをしている。万引きもその一つである。万引きはメンバーであることのアリバイなのだ。だから、新しく参加した5歳のじゅりもメンバーの一人として生きるために万引に加わる。彼女が脱出してきた<家庭>に戻らないために。
 <一家>の破綻は、じゅりの万引きが露見するのを庇うために、祥汰がわざと店員に見えるところで万引きし捕まることから始まる。その前にばあちゃんの死があるのだが、その死、突然死の描写は秀逸だ。ここから<事件>は警察の知るところになる。
 疑似<家族>の解体。
 もともと疑似的集団だったのだから、それは既に<解体>していたのであり、結局それぞれの彼等/裸の個人に戻ったのである。だが、彼らに限らず、人は生活としては過酷な、個としては孤立した寒々とした現実に突き放されているのである。映画を観終わった<観客>は、明るくなった劇場で余韻に浸るより、現実の中に突き放された自分を見出す。劇場を出た時に、街が劇場に入った時と違って見えるのはそのためだ。繰り返すが、これは過酷な映画である。
 登場人物たちは、近代人として思考したり、市民として自立した意識を持っているわけではない。彼らは貧しく、孤立し、分断されて生きていくことになる。前近代の共同性(例えば、村落的あるいは長屋的)は喪失し、世界ときっちり向き合うだけの個の確立とは程遠く、いま私たちが生きている状態は、バラバラにされた<この一家>と同じなのである・・・と思う。
 是枝監督がどう思ったかはいざ知らず、私はそのように観た。それは、内田樹がコラムでいうように、監督に問うことではなく私たちが受け取るものなのである。寝ながら学べはしなかったが、しかし、構造主義が近代的主体の虚構を様々な方法で明らかにしたのだとすれば、この映画は構造主義的であるのだろう。あるいは、現代思想のキーワードとして一言でいえば、それは<疎外>である。


 確かに、ラストカットのじゅりのアップに希望を読みとることもできないわけではない。それは、その直前の治と祥汰の別れに希望を見出すことが可能だからだ。しかし、私はラストカットのじゅりのアップにこの世界の過酷さを、ほとんど絶望を見る思いがした。これから生きていくであろう彼女の切なさが伝わってくる。それは、私の中にある<何か>がそうさせたのだと思う。<何か>とは何か。是枝氏は結構重たくて厄介なものを遺してくれた。しかし、それは逃れられない<何か>なのだから、仕方がない。
 それにしても、じゅりの乳歯が抜けるシーンにちょっと感動。
 子供の演出うまいなあ・・・。


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