HOME > Special > 「映画を撮りながら考えたこと」を読みながら考えたこと、思ったことなど。私の中の乱反射・・・あるいは、ライターとテレビ的読者のためのサイドメニュー 前川英樹

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私は是枝監督作品を二作品しか観ていない。「歩いても、歩いても」と最新作パルムドール受賞「万引き家族」だ。どちらも強い印象を残す作品であり、私なりに高く評価する(放送人ブログ「これは過酷な映画である」しかし、それだけでは「是枝監督論」を書くわけにはいかない。
けれども、この「映画を撮りながら考えたこと」を読みつつ、監督論あるいは作品論としてではなく、そこから立ち上ってくるさまざまなメッセージが、自分史的テレビ論に刺さってくることがあまりにも多い。多過ぎる。その乱反射をノートしておこう。それは、是枝氏の思いとは遠く離れることになるのだが、それこそ良い本/テキストなのだと思う
以下、基本的にはページを追いつつ、しかし、時には本とは遠く離れて、そして幾度かの重複を重ねつつ進めてみよう。

Ⅰ.テレビマンユニオンがあってよかったね。
「何を表現するかではなくてどのようなテレビジョンをつくるか」村木良彦

書き出しはテレビマンユニオンでの経験から始まっている(P31)。
改めて思うのだが、テレビマンユニオンがあってよかった、是枝氏にとっても、テレビ/映画にとっても。テレビマンユニオンと私の関係は後で触れるとして、テレビマンユニオン設立の状況について、私が知っているいくつかのことを記録として書いておこう。
1969年に設立されたテレビマンユニオンには、テレビジョンの最良の遺伝子/因子が集積されていて、それらは確かに未消化乱雑なままではあるが、それこそがまたテレビジョンであるのであって、それらを思考としても体験としても引き継いだのが是枝氏なのだろう。


テレビマンユニオン設立に至る状況として、TBS闘争を語らないわけにはいかない。TBS闘争については、「お前はただの現在に過ぎない」(萩元晴彦 村木良彦 今野勉 田畑書店 朝日新聞出版再刊)に詳しいが、他にも「テレビの青春」(今野勉)など、当事者たちの発言も記録されている。

TBS闘争で、何故「この戦いは<テレビとは何か>という戦いである」というテーゼが生まれたのだろうか。TBS闘争は①成田空港反対闘争の取材に対する処分、②萩元・村木の不当配転、③政治的圧力によるニュースキャスター田英夫解任、という極めて具体的な会社の措置に対する反対闘争であるが、その根底にあるのは、<いま、テレビにいる私たちは何と向き合っているのか>という問いなのであった。
この<闘争>のユニークさは、例えばTBS労働組合は労働条件や組合員の身分の問題として春闘と組み合わせた闘争方針を提起し、機関紙「組合速報」により情宣活動をしていたが、それとは別に自然発生的かつ自立的な日刊紙「かわら版」が登場し、組合とは全く異なるスタイルでゲリラ的に社内に配布された。発行人は「報道の自由特別委員会」である。この委員会は、組合内に位置づけられていたが、その設立にあたって組合中央は「報道の自由を守る特別委員会」という組織を提案をしたところ、不当配転を拒否しまま休職中だった村木良彦氏が「”自由”は守るものではないのではないか」と批判した結果、「守る」が削除されたという経緯があった。
 これはほんの一例で、労働組合の定型的運動に対して自主自立文化論的発想(文化の政治からの自立)による議論が随所で行われた。「文化を政治の風下に置くな」という発想がTBS闘争の底流にあったのである。その頂点が社外の有志が多数参加したティーチインであり、「組織と秩序を維持する」という一点で会社と通じた組合中央により、中止解散に追い込まれたのであった。TBS闘争が敗北したのは、結果として会社による処分や判断を変更させられなかったからではなくて、<テレビに対する想像力>における敗北だったのだ、と今にして思う。あの時代のテレビ論の原点を探り続けた村木良彦が闘争の後に書いたたいくつかの文章には、そのように明示的表現はないとしても、明らかに<それ>=「想像力の敗北」が意識されている。


村木氏の「ぼくのテレビジョン あるいはテレビジョン自身のための広告」(田畑書店 1971)には、「何を表現するかではなくてどのようなテレビジョンをつくるか」と書いてある。これは明らかに<TVディレタクー=映像表現者からメディアプロデューサーへ>という選択を先行的に意識した言葉である。後にテレビマンユニオンからトゥデイ・アンド・トゥモロウへとポジションを変えた選択は、村木氏にとって必然でもあったであろう。それ故に、メトロポリタンテレビジョン(MX)の挫折は、痛恨の極みであったであろうし、それは残されたブログにも書かれている。挫折というコトバは村木氏には似合わないだろうが、無念であったことには変わりはあるまい。P60 に「テレビジョンは異端を必要としている」と村木氏が書いていることが紹介されているが、村木良彦における異端とは個別番組制作における異端というよりは、テレビジョンという存在そのものへの問いかけだったのであろう。

「お前はただの現在に過ぎない」が特筆されるべきなのは、本そのものがテレビ的で構成であるだけでなく、ゴダールの発言がコラージュとして織り込まれ、内村剛介氏のインタビューがテレビ論として(と言ってもいいだろう)組み込まれ、さらにフランス国営放送の戦いも、ソ連に蹂躙されたチェコのプラハの短い春の地下放送も、<テレビとは何か>という一点から読み解かれていることである。まさに時代と並走した作業だったのだ。あの時代を<1968年革命>と呼ぶ人もいる(絚秀実)。

私は、村木氏との早すぎた別れを迎えた時(2008年)に、村木氏のテレビ論についていくつかのノートを書いている。また、「お前はただの現在に過ぎない」の再刊に際して、TBS闘争を捉え返すための小論も書いた。それらは、文末の[TBSメディア総研・メディアノート]の項目を参照されたい。

 テレビマンユニオンには、こうしたテレビジョンの歴史と意識が重層的に取り込まれていたのであって、それがどれほど明瞭に意識されていたかどうかはともかく、空気のように新しいメンバーたちに伝わっていったのであろうと想像する。
 是枝氏にとってテレビマンユニオンが存在していて良かったと思う所以である。

Ⅱ. TBS闘争とその時代
TBS闘争は”先駆的なテレビ論”が提起されたことでテレビ史に記録されるべき<事件>だが、それは時代の構造的転換と同時進行していたことにおいても評価されなければなるまい。
映画においてヌーベルバーグと呼ばれる作品群というよりは運動やATG (アートシアターギルド)の誕生し、演劇では新劇の分裂と天井桟敷、状況劇場、自由劇場などが動き出す、ビートルズを頂点とするロックあるいはフォークが一世を風靡し、シンガーソングライターたちが登場する、劇画雑誌「ガロ」がつげ義春、水木しげる、滝田ゆう、白土三平、などなど世に送り出し、そして街では若者たちが新宿から渋谷へと移動し、パルコが風景を変えた、などなど。テレビもそれらのムーブメントと無縁ではありえなかった。
政治におけるニューレフトの誕生はこれと深くリンクする。思えば、1956年のスターリン批判は、単に独裁的指導者の死ということだけではなく、それをはるかに超えて時代の転換点を意味していた。正統=既成左翼を乗り越えるべき対象とした新=異端左翼が登場する。その波及は、政治と文化の緊張を時代のテーマに押し上げようとしていた。私が大学に入った1960年は、それが時代の常識といった思想的雰囲気だった。「革命」というコトバが学食のアジ定(アジフライ定食)のように語られていた時代だった。
過激で戦闘的な思想家の代表は吉本隆明、谷川雁、埴谷雄高、といったところだろう。時代を象徴する著書を一つ挙げるとすれば、それは吉本隆明「異端と正系」であろう。
TBS闘争の背景としてそのような時代の転換点が色濃くあった。当時の状況を事象として書き出せば、全共闘 成田闘争 反戦青年委員会 ベ平連 ジャテック(JATEC ベトナム戦争脱走米兵支援組織)、などとなどにつながる。
そうした時代状況は次の一文に典型的に見出すことができる。
「詩とことば」(荒川洋治 岩波現代文庫)より。
「1970年前後は、評論家が燃えた。青年たちは評論に熱中した。評論集が次々に出た。丸山眞男、吉本隆明、埴谷雄高。鶴見俊輔、竹内好、藤田省三、橋川文三。内村剛介、松本健一、桶谷秀昭。寺田透、磯田光一、日沼倫太郎、月村敏行、秋山駿。谷川健一、井上良雄、丸山照雄、田川建三。谷川雁、村上一郎、黒田喜夫、松永吾一、梶木剛、宗谷真爾、廣末保・・・・・・。思想家、政治学者、詩人、文芸評論家、国文学者、神学者、民俗学者、など、ここにあげた人たちはいろんな世界の人たちだが、当時の読者に区別はなかったのではないか。怒涛のように押し寄せる彼らの評論を読む。読み耽る。それが日常の一部を形成した。そのころの評論は個人の思考を、まるで詩のように突出させるものが多い。不親切なのだ。優しさのかけらもない。」
 全くそういう時代だった、私の場合は60年代前半からだったが。

ここに名前の挙がっている人の中で、私が全く掠らなかったのは井上良雄、丸山照雄、宗谷真爾くらいだ。田川建三のキリスト教学なんて、どうして読んだのだろう。よくぞ読んだものだ。もちろん、ここに上がってない人も沢山いる。学生時代は金がなかったので、新刊書が出てもすぐに買わなかった。数カ月して古書店に出るのを待っていた。その馴染みの店はもうない。
 「ここにあげた人たちはいろんな世界の人たちだが、当時の読者に区別はなかったのではないか」、と言われればそのとおりだ。タイトルだけでも、こちらの神経にピリリと突き刺さるものがあれば何でも読んだ。左翼運動は何故破綻したかということと、日本浪漫派とは何だったのかということは、同じ問いだった。幸徳秋水と北一輝、転向論と黒龍会・玄洋社などについて書いた本が机の上に並んでいた。
 「怒涛のように押し寄せる彼らの評論を読む。読み耽る。それが日常の一部を形成した」、「日常の一部」というより「日常そのもの」だった。「不親切なのだ。優しさのかけらもない」、そう、だから必死に読んだのだった。因みに、谷川雁には「分からないという非難の渦に」というエッセーまである。
 あの頃の熱気、「自分は何者か」とか「時代と自分の関係とは何か」とか・・・知に対する渇き、あるいは存在論的な知のあり方、それは20世紀的なるものの一つなのだろう。その残滓が書架にある。

 付け加えれば、テレビマンユニオンが誕生するのと同じころにTBSを離れて自立した実相寺昭雄や、実相寺と組んでウルトラマンシリーズの脚本を、そしてまた今野勉と組んで「七人の刑事」の脚本を書いた佐々木守などにもアバンギャルドあるいは先行する表現形式へのアンチテーゼを目指す意識が明確に表れている(P59.)。実相寺が書いた小説「星の林に月の船 怪獣に夢見た男たち」(大和書房 1987. 2007.再刊)には、この時代のテレビのもう一つの世界がリリカルに描かれている。佐々木守は後に大阪の朝日放送で、テレビドラマ史上最高傑作であろう(と、私は思う)「お荷物小荷物」及び「お荷物小荷物 カムイ編」(主演 中山千夏)を書くことになる。
 尚、ここ(P53.)で大島渚の名前が登場するが、松竹に入社した大島はデビュー作「愛と希望の町」以前にシナリオを書いていて、それは「深海魚群」という劇場上映時間にはとてもおさまらない長編なのだが、そこには1950年代の日本の断面が剔抉されている。「愛と希望の町」、「青春残酷物語」、「日本の夜と霧」、「太陽の墓場」へと続く前期大島渚の作品群の原点がそこにある。私たちは、例えば大島のような優れた先行者たちによって、すぐ前の世代の人間が生きた時代がどのような時代だったかを知ることができる。そのような先行者たちがいることは極めて大事なことだ。是枝氏において、それがテレビマンユニオンだったであろうように。

その頃の村木氏と私の個人的体験の一つを書いておく。1968年10月21日、国際反戦デ―に新宿街頭を中心に闘争が展開されるという情報がしきりだったので、私たち二人は新宿三丁目から大ガードにかけての大通りや路地を歩いてみたのだが、結局大きな騒乱に出会うことなく、ゴールデン街の行きつけのバーに引き上げたのだった。その後で、深夜の新宿駅ではデモ隊と機動隊が激しく衝突していた。
 この時代を代表するドキュメンタリストは小川伸介である。「圧殺の森」、「現認報告書」、<三里塚シリーズ>、など。是枝氏も小川伸介に注目している。ここでも、時代の刻印を是枝氏はちゃんと引き継いでいることが分かる。

是枝氏は、「お前はただの現在に過ぎない」にテレビジョンとジャズの関係が書かれていることに注目している(P32)。それは、JAZZとテレビはライブ性において共通しているということであり、そこから「思いがけず出会う」のがテレビの良さ(P145)というテレビへの視線が生まれる。
しかし、テレビとジャズとの関係は、「お前はただの現在に過ぎない」ではこう続いている。「『黒人にとって、ジャズは一般的黒人文化のほとんど直接的な表出である』(リロイ・ジョーンズ)。大衆にとって、テレビは一般大衆文化のほとんど直接的な表出である。」
このフレーズをどう受け止めるか、2018年の(あるいは、2018年に至る)テレビの現象学のキーワードがここにある。そこから<バラエティーとは何か>、その次に<ワイドショーとは何か>、という問いが来る。それは、テレビ的番組であるが、そこには果たしてテレビ的方法論、テレビ固有の表現は成立しているのだろうか。そこに、テレビの存在理由への自問があるべきなのだ。とはいえ、それもまた、(あるいは、それこそ)テレビジョンであることは間違いない。

Ⅲ.ドキュメンタリーとは何か
テレビマンユニオンとTBSは、出自において人間関係の多重的なつながりがあり、仕事としても初の3時間ドラマ「海は甦る」(演出 今野勉)の制作という関係もあった。しかし、テレビ編成というルーティーンの場では、TBSとの関係はそれほど濃くない。是枝氏のテレビの仕事も、フジテレビの「NONFIX」から始まっている。
後に村木氏や重延氏(前川とTBS同期) と話していると、「TBSに企画を持って行っても結論が遅い。フジはその場でリアクションしてくれる」という話題が何度も出たものだった。1980年ころまで圧倒的に強かったTBSの自信、自尊心の表れであり、そこにその後のTBS の退潮の始まりを見るべきであろう。
1996年オウム事件の渦中にTBSはあった。
オウム真理教取材テープを教団幹部に見せたことが坂本弁護士殺害事件につながったのではないか、という批判を浴びていた。社内調査メンバーだった私は、国会の参考人招致の場にも同行した。「取材テープを見せたかどうか」ということが焦点だった。しかし、当時のワイドショー制作班が、各セクションからの寄せ集めチームであり、組織も千代田分室という治外法権的環境にあって、スタッフの頽廃あるいは荒廃を生みやすいということが底流にある、と私は思った。「事件」が一区切りし、責任を取る形で社長が交代した時に、新社長に「番組の一部として取材した情報を取り込むのではなく、少なくとも30分できれば1時間のドキュメンタリー枠が必要だ。きちんと作り切る力がないとやっぱりだめですよ。」と進言したが実らなかった。数字が取れないということだったと思う。その頃、TBSには固有のちゃんとしたドキュメンタリー枠は既になかった、いまでも。TBSのドキュメンタリー枠「現代の顔」、「現代の主役」などはずって以前に終了していた。
 是枝氏は、ドキュメンタリーの定義について語っている(P110)。ここを読みながら、オウム事件のことを思ったのだが、もう一つテレビマンユニオンが制作したフィリピン近海に住む漁猟民族のドキュメンタリーを巡る論争を思い出した。当時、新聞はテレビ批判にかなりの力を入れていたと思う。NHKの「ムスタン」の<やらせ問題>は大きく報じられた。確かにそれは<やらせ>であった。そうした傾向としてのアンチ・テレビの流れに、そのユニオン制作の番組が非難の対象にされた。この時、テレビにおける表現について、根本的視点から長大な反論を書いたのが重延氏だった。そのコピーは長らく私の手元にあり、あのオウム事件の時も繰り返し読んだものだったが、TBSを離れる際に信頼できる友人に譲って今はない。重延氏は一日で書き上げたと言っていたと記憶する。
是枝氏が重延論文を読んだかどうかはしらない。おそらく読んだであろう。テレビドキュメンタリーにおける再現の問題は、是枝氏のテレビ表現論の大切な核になっている。
テレビドキュメンタリーについて是枝氏が語るとき、彼に強い印象を与えた番組として取り上げているのは村木良彦の「私の火山」と「ハノイ・田英夫の証言」である。


「私の火山」はフィルムによるドキュメンタリーで、村木氏は、アクション・フィルミングによる表現を目指していた。これも「異端」の証明だった。それに比べると、その1年前(1967.10.30.)に制作された「ハノイ 田英夫の証言」はOAの日付、時刻を意識したスタジオ・ドキュメントである。
この番組はディレクター3人制で、チーフ格の太田浩氏(1957年TBS入社 後に報道局長、取締役)によれば、番組のスタジオ構成について次のような経緯があったという。
太田氏(フィルム編集・ナレーション作成)は、田氏が現地取材で見たこと感じたことを取材フィルムとともに一人で語ることが最もテーマに相応しいと提案したが、宝官正章氏(太田氏と同期入社 後にTBS闘争の発端となる成田空港反対闘争取材ディレクター、テレビマンユニオン結成メンバーの一人)は、数人の専門家によるディスカッションで多角的に論ずるべきだと強力に主張し結論が出なかった。(2日間の会議の間)黙って聞いていた村木氏が、最後に「太田さんの案で行きましょう」と発言して決まったという。太田氏は「村木君にスタジオを任せてよかった。完璧だった」と私に語っている。村木演出はスタジオをクレーンカメラのワンカット撮り、取材フィルムのプロジェクター操作もスタジオで田氏が語りながら自ら行ったのだった。TD(Technical Director技術チーフ)の加納孝夫氏も「村木ちゃんのスタジオワークは素晴らしかった。セットも計算しつくされていた。村木ちゃんの意図通りにするにはどうするか、難しかったけどやり甲斐があった。」と話していた。
(上の写真はドラマ「日の当たる坂道」のディレクター時代の村木良彦)

さて、少し前後するが、是枝氏の制作モチーフにインパクトを与えたのは、<公共的死と個人的死>ということに向き合ったことだと語られてい(P68)。是枝氏の最初期の仕事は、そこから始まった。
確かに死はそのようにとらえることができ、そのようにとらえることでドキュメントが成立するであろう。しかし、是枝氏の論旨からまったく離れるが、例えばオウム事件の死刑囚の刑の執行による死は何なのだろう。唐突にこのことについて触れるのは、2016年にNHKで制作・放送されたドキュメンタリー「失われた言葉をさがして 辺見庸-ある死刑囚との対談」を思い出したからだ。これは、三菱重工爆破事件(1974年)の主犯、死刑囚大道寺将司と作家逸見庸との面会記録と獄中で大道寺が読んだ句集(「棺一基」)によるドキュメンタリーである。映像にもっともなり難いもの(死刑囚の心理)を映像化するという困難な企画を実現したことに強い印象を受けた。彼の死も、公共的か個人的かという問いを拒むものがある。
 と、ここまで書いたところで、辺見庸氏がオウム死刑囚の刑の執行について書いていて、ネットにアップされている。
「人々はこれを望んだのか オウム前死刑囚処刑」 (47 News 2018.9.7.)

Ⅳ. テレビジョンと映画と
本書に戻るが、P208~209.では、死者との共存あるいは会話について書かれている。西欧文化にはないこうした精神の在り方は、おそらくアニミズムに通じるものであって、その文化の価値観の相違から、例えば戦争責任の在り方にまで通じるものではないかと思われる。日本近代が明治維新によって接ぎ木されたときの断層は今につながっている。この断層の根は深い。私が<近代の超克>にこだわる理由もそこにある。是枝氏が、ここをもっと探っていってほしいと、私は思う。P140.で日本人の戦争責任について触れているが、これは後で触れられる<インターネットと国家観>に通じるものであろう。

是枝映画氏は映画とテレビについてこう語る。「僕は映画の作り手ではなくて、テレビ作家なんだろう」と。彼は、<テレビ訛りの映画の言葉>で自分の映画作法を表現する。それは、テレビが<生>であり、<日常>であることから生まれる作法である。しかし、その反面、「テレビは異端を必要としている」という村木良彦の言葉にも、触発されている。だから、と私は思うのだが、テレビは日常であり<ケ>であり続けるしかないのだが、その日常が切断されるという<状況>をも、日常の中に差し出すメディアであるのだ。そこに、作家性を超えるものとしてのテレビが存在する。
テレビは<規制>と<市場>という二つの原理を構造的に背負っている。そこでいかに「自由」でありうるか、「異端」とはそのことをおいてありえない。ドキュメンタリー「あなたは」、「私は」というテレビ表現はそういうものであり、<3.11.>の映像もまたそのようにテレビ的であった。

「小津監督の映画は、非常に空間が捉えにくい」と是枝氏は語っている。P200.
そう、まことにその通りだと思う。
「歩いても歩いても」を観た時に、小津的であり向田的でもあるが、久世的ではないと思い、やっぱり是枝的だ、と書いたことがある。
 小津の世界には強く惹かれるものがある。小津の世界は失われた私の世界。まもなく消え去るであろう(そして、確実に消えてしまった)旧中産階級の家の佇まい、言葉使い、一言でいえば<世界>があった。それは、私たちの親、伯父伯母・叔父叔母たちのあるいは年長の従兄弟たちの世界だった。時代の断面を繰り返し描く小津は、家庭の日常を描いているように見せつつ、失われていく世界を描いている。小津は、かなり厳くしシビア―に時代というものを見ていたのだと私は思う。
小津の世代である父たちは、私に何も残さなかった。ただ、そのような感覚は間違いなく私に植え付けられている。そのことに気づくのに随分時間がかかった。小津安二郎は、私の生母の従兄弟だった。長い間差のことを知らなかった。誰も教えてくれなかった。そのことは、また別途。そんなことを知っていたら僕はこの世界に入らなかっただろうナ、多分。

P.231.「空虚は可能性である」、とても良いフレーズだ。

P.248.から映画祭に事が書かれていて、P253.では、映画祭という監督同士の交流の場で「日本の映画監督は、基本的に映画の話しかしない人が多いです」という指摘が登場する。確かに。ぼくは映画祭な参加したことはないが、テレビ関係の国際交流では、海外、特にヨーロッパ各国のメンバーの話題は広い。ぼく自身は英語で直接会話することはないのだが、それだけに通訳の力量は語学力だけではなくて幅広い知識が求められるということは、何度も経験している。
 話は飛ぶが、TBS闘争という極めて特異な状況のドキュメントである「お前はただの現在に過ぎない」が優れたテレビ論として構成されたのは、萩元晴彦の知識教養の根の深さとアバンギャルドな精神、村木良彦の精緻な論理と透徹した倫理、今野勉の状況への垂直な対応と身体的思考、というそれぞれの個性と才能の相乗作用によるところが大きい。一般的に、当時のテレビ、ラジオ局の知的レベルは高かった。彼らの知的レベルに応える仕事が限られていたから、新興分野の放送を彼らが選んだという事情があったのかもしれない。採用も、それに対応して筆記試験による基礎的な知識教養のハードルそのものが高かった。70年代に入って、会社訪問形式の面談重視による採用が主流になってから、知力が低下したというのは穿ちすぎだろうか。
敢えて短絡的に言えば、テレビで仕事をするということは、世界に向き合っているのだ、ということなのだ。

 映画祭について語っている中で、ジャン・ジャク―が登場する。
この監督の「ブラットホーム」を観た時に、「ああ、いい映画に出会った」としみじみ思ったものだった。中国文化大革命という衝撃的な歴史が、とある農村でどのように終わり、そしてどのように改革開放が訪れたか、そしてそこから天安門事件に至るまでの時間を、青年たちを通して中国の断面を瑞々しく描いたこの映画は、鮮やかな印象を残してくれた。私の優れたスタッフだった中国人女性と一緒にこの映画を観た後に、彼女が「あれは私の青春です。下放された後、文革が終わって大学入試が再開されたとき本当に嬉しかった」と話してくれた。

Ⅴ.村木良彦氏のこと
 P283.ここで、是枝氏は、再びというか改めて村木良彦につい語っている。そして、村木の死をきっかけに制作した「あの時だったかもしれない~テレビにとって『私』とは何か」について、「テレビの敵は芸術とジャーナリズム」という言葉を村木の言葉として紹介している。
これは、「お前はただの現在に過ぎない」の次の一節によるものであろう。

 「テレビ――お前はただの現在に過ぎない」とは、即ち、テレビの同時性(即時性) に対する「権力」及び「芸術」からの否定的非難の言葉として、ぼくらに発せられているということなのだ。
 「時間」をすべて自ら政治的に再編したあとで、それを「歴史」として呈示する権利を有するのが「権力」だとすれば、そのものの「現在」が(を…引用者)、as it  is(あるがまま)に呈示しようとするテレビの存在は、権力にとって許しがたいだろう。「テレビ、お前はただの<現在>にすぎない。お前は安定性を欠き、公平を欠き、真実を欠く」――それが体制の警告だ。テレビが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ。
 「時間」をすべて自ら選択し内面化したあとで、それを「作品」として呈示することを「芸術」とするならば、時間を追うことによってのみ、独自の表現をもたらそうとするテレビは、芸術の第一義的本質を欠いている。非選択的、非永遠的、非作品的……etc。それは、いわゆる「芸術」からみれば、「テレビ、お前はただの<現在>にすぎない」となるだろう」。(初刊 田畑書店本 p365. 再刊朝日文庫 p492)
 その後にこう続く。
「『テレビ、お前はただの現在にすぎない』という否定は、そのまま、こうして一挙に裏返しにされる。『イエス。テレビ=わたしはただの現在でありたい。』
 テレビはこのとき、権力のための情報機関であることから身を辛うじて引き離し、芸術のための表現媒体であることの誘惑からも辛うじて身を守ることができる。
 テレビは、権力によっても芸術によっても再編成されることを欲せず、現在そのものを創り出していく限りにおいて、自らの未来を決定しうるのだ。そして、それをなしうるのは、もちろん、テレビそれ自体の機能ではなく、テレビの機能と己をかかわらせた新しい表現者、テレビマンであろう。彼らのかかわる<現在>とは、そのとき、物理的現在ではなく、彼らの<内なる現在>であろう」。

村木良彦との出会いは、私にとっても決定的だった。
たまたま入ってテレビ局で、何をするか途方に暮れていた時にTBS闘争に出会い、ともかくも「ここはホントにまじめに向き合おうと」思っているさなかに会ったのが村木氏だった。彼が、TBS闘争敗北後スタジオ管理課というセクションで孤立した時間を無言で戦っているときに、何がきっかけだったかは忘れたが、多分このままあの戦いを消し去ってはいけないという数人のメンバーの集まりがあり、そのなかで多少私と波長が合ったのだろう、週に何回かゴールデン街で酒を飲みながら過ごすようになったのだった。あの頃の村木さんはビールしか飲まなかった。喋らなかった。ただ、数時間、「薔薇館」のカウンターで過ごしたのだった。TBS闘争が敗北、というより解体の過程でぼく書いた総括メモの思想が、村木さんの論理にどこかで重なったのだろう。そこから、「反戦+テレビジョン」の出版につながる。・・・というようなことは、また別途。
文末の村木テレビ論についての小論を参照されたい。
一つだけ、そこから書き出しておこう。([私読解読・・・「存在論的・テレビ的」]  続・「お前はただの現在に過ぎない」文庫版について  の一節)。
 若き詩人だった吉本隆明に「ちいさな群への挨拶」という詩がある(「転位のための十篇1952~1953/「吉本隆明詩集」思潮社1963.所収)。全体で55行の中編詩で、その後半に以下の4行が置かれている。

 ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
 ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
 ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
 もたれあうことをきらった反抗がたおれる

 私の知っている村木良彦は、このような精神の人だった。
 「吉本隆明詩集」に掲載されている「吉本隆明論」で、鮎川信夫は「彼は、今後も反逆的モラルの詩人として、あくまでもその孤独をつらぬきとおすであろうか。あるいは、力をゆるめた安堵から、もっと人間性の限界と不完全さを受け入れるようになり、おもむろに寛容と平和の世界へと移行するようになるであろうか。いずれにしても、思想詩人としての彼の骨格が、そうやすやすとかわるとは思えない」と書いている。
 テレビジョンを思想として考え続けたテレビマン村木良彦の骨格は、そうやすやすとは変わらなかったことは確かである。


TBS闘争が解体し、「反戦+テレビジョン」を出版するなかで、村木氏はTBSを離れることを決意する。それが、彼のテレビマンとしての選択だった。
しかし、そこから話は村木にとっても思わぬ展開になる。村木氏の同期入社の吉川正澄は、村木一人がTBSを離れるのではなく何人かで独立して制作会社を作ろう、という構想を村木に投げかけたのだ。吉川氏がいつからこの構想を育んだのかは知らない。ただ、後年村木氏は「吉川には敵わない」と語っていた。吉川氏が凄いのは、その話をTBSの担当常務(のちに社長)に直接相談したことである。入社10年目の漸く中堅と言ってもいいだろう社員が、独立制作会社の話を直接常務にもちかける、そのたじろぎのない対応に村木氏は感心していた。結果、そのようにしてテレビンユニオンはスタートする。
 この構想のある段階で、私は村木さんから話を聞いている。結構悩んだ覚えはあるが、私は参加しなかった。「思わず入ったテレビ局」と書いたけれど、その時テレビマンとして生きるという決断はできなかった。そこまで(彼等程)、テレビが好きじゃない、というのが当時の本音だった。それに、双子の娘たちが生まれたばかりで、親は既に不在であり親族から自立することが必須だった状況で、退職―自立という冒険をする勇気がなかった。とはいえ、TBS闘争に深く関わったのだから、これからのテレビかどうなるか、関心のないはずがない。だから、村木氏への答えは「これからテレビがどうなっていくのか、内側から見てみたい」というものだった。村木さんは、いつものように静かに「そういう人も必要です」と言っただけで、それ以上「そう言わずに、是非お出でよ」とは言わなかった。そういう人だった。
(註:「反戦+テレビジョン」は村木と深井守の共著。深井は前川の筆名。テレビマンユニオンに参加しない選択をした前川に、村木氏は筆名にした方が良いでしょう、と語ったのだった。)
「反戦+テレビジョン」の一刷りを抱えてTBSのテレビ局舎の廊下を曲がった途端に、10人ほどの人間が集まっている小部屋があり、それがユニオン立ち上げの打合せの場所だった。その部屋に充満していた熱気のようなものを、今でも私は覚えている。
こうして、村木氏との一度目の出会いは終わったのだった。
村木氏との二度目の出会いは、それから15年程経ってからである。(写真右は1990年 幕張)


1984年に制作を離れてメディア企画セクションに移っていた私は、その日赤坂界隈を歩いていたのだが、まったく偶然に村木さんと出会ったのだった。「今、トゥデイ アンド トゥモロウという会社でいろいろ始めたところなんだけど・・・」と相変わらず穏やかに語りかけてくれた。「では、一度お邪魔しますよ」と言ってその時は別れたのだったが、何よりも強く感じたのは「ああ、村木さんはTBS闘争をすっかり乗り越えているんだ」ということだった。その日、デスクに戻ってデスクのガラス板の下に挟んであった<あなたに>というタイトルの短いメッセージを剥がした。そのメッセージは、TBS闘争が敗北で終わり、萩元、村木両氏が配転先に移動することになった時に、二人が組合員だけでなく、すべての<テレビジョンに関わる人たち>に向けて送った<挨拶>だった。村木さんと再会した日にそれを剥がしたのは、私自身の儀式だった。少し呼吸が楽になった。


「あなたに」

ひとつの季節が終わり、
新しい墓標に新しい埴輪が飾られる

ひとつの白旗は無数の白旗を生み
ひとつの幻想は無数の幻想に守られる

噴火しない火山は火山ではない
ただの山だ

テレビジョンとは何か
一九六八年三月
四月
五月
そして六月・・・・・

祭壇の生贄を喰ったあなた
黄色い腕章をつけたあなた
配転を企画し、実行したあなた
配転されることのないあなた
質問したあなた、答えなかったあなた
報道局声明に同意したあなた
さよならを言ったあなた
ティーチ・インを中断したあなた
空腹のあまり、ふりあげた自分の拳まで
喰ってしまったあなた
私たちとは違うテレビ論を持つあなた
私の中のあなた
・・・・・・・・

あなたにとって、この斗争はいったい
何であったのか
あなたにとって、テレビジョンとは
いったい何だったのか

今日、私たちは新しい職場に就く
それは
あなたとの断絶を確認し
あなたとの訣別を宣言し
新しいあなたと出会うためである

一九六八年六月
萩元晴彦
村木良彦
(かわら版 No28.)


註 
・ 黄色い腕章 デモの取材などで、警察から取材が許可されると渡される腕章
・ ティーチ・イン TBS闘争の最終局面で、社外の人々も参加して議論する公開の場が設けられたが、組合中央が統制を乱すと判断し、中断された。
・ 「かわら版」 組合の正規の広報とは別に<報道の自由特別委員会>がゲリラ的に発刊したほぼ日刊紙。この号が「かわら版」最終号になった

 テレビマンユニオンに参加しなかったが、自分にとって<テレビジョンとは何か>という問題は、その後のあらゆる選択の原点だった。テレビ制作局の十数年は、ただ忙しいばかりだったが、問いは問いとして残されたままだった。

 それから、パルコ通り・渋谷ホームズの、そしてその後は表参道の村木氏の事務所に足しげく通うようになったのだった。村木さんからハイビジョン(当時は、高精細テレビ)の話を聞き、それがきっかけでTBSはNHKやソニーと接触し、ハイビジョン制作開発を始めた。民放では圧倒的に早かったし、作品レベルではNHKよりコンクールで上を行っていた(「まほろば」「芸術家の食卓」「陰影礼賛」)。そのころは、<蹴手繰りでも出足払いでもNHKに勝とう>と思っていた、総力戦では勝てるはずがないのだから。
ここから、民放のBS参入そして地デジへという展開が始まる。私のテレビとのかかわりの後半戦がこうして始まった。村木さんとは”ハイビジョンマガジン プロジェクト”で共同作業を行った。一業種一社で、イマジカ、大日本印刷、NTT、TBS、という座組だった。「クリムト」、「ベルリンの壁 解体の記録」、「近代遺跡の」(昨今話題の軍艦島など撮影)など。村木さんとは「ハイビジョンにより、消費財映像から蓄積在映像へ」というコンセプトを議論したものだった。その頃、事務所で飲むことが多かったが、もうビールは飲まずオールドパー・スペリオールばかりだった。どうも、これと決めると他の酒は飲まない主義だったのだろう。
 メディア企画という当時はあまり関心を持たれなかった分野でそれなりに仕事をしたせいだろうか、局長になり役員になったのだが、そんな話をしたときに「それは良かったね」と言ってくれたものだった。自分の発言を解説しない人だったが、多分TBS闘争に関わった社員たちが、その後社内でちゃんと評価されていないのではないかと危惧していたのだと推測する。それは自分の責任の限界を超えるものについての呵責、というより優しさというべきであろう。
そんな数年の後、村木氏はメトロポリタンテレビジョン(MX)設立に踏み込み、私との接点は遠くなった。インターネットとテレビの関係が話題になりだしたころ、一度か二度一緒に食事をしただろうか。その頃は、もう酒を飲まなかったと思う。地方の時代映像祭のこと、放送人の会のこと、なども少しは話題になったと記憶する。村木良彦ブログがまだネットに残っている。若干の往復メールも手元にある。MXについては「言いたいことをいずれ書く」と短く語っていた。
私にとっては、あの「反戦+テレビジョン」を挟んだ1年間のことを書いてほしかった。「それも含めて個人史のようなものを書く」と言っていたのだが。あの時間は村木氏にとって何だったのか、それを私の時間としても確かめたいのだ。
いま、「自分がいるところがテレビジョン」と言った村木良彦の言葉を思い返している。
ああ、それにしても(それ故にこそ)村木良彦の死は早すぎた。

Ⅵ.国家のことなど
P.329にこうある。
「インターネットを漂っている人がなぜ右翼とかナショナリストになるのか?」。この問いを考えいくと、人とつながっている実感がない人がネットへこぼれ落ちるときに、彼らを回収するいちばんわかりやすい唯一の価値観が「国家」というものでしかなかったのだということに、気づかされるのです。
・・・そこで、共同体や家族に代わる魅力的なもの・場所・価値観(それをホームと言っていいかもしれませんが)を提示できない限り、彼らは国家という幻想に次々と回収されていくでしょう。」

あの「かわら版」の編集長役だった年長の友人とこんな話をしたことがある。
「もし、人類が一神教、貨幣、国家を作り出さなかったなら、もう少し幸せだったのではないだろうか」と。
国家とは何か、国家への幻想から人は自由になれるだろうか。
メディアと国家の関係を考えるとき、必ず出会うのが「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としての国家である。
 放送法4条問題について書いたときに、以下のように書いた。
「マスメディアは近代社会の登場に深く関わる。市民社会が旧権力と戦うために手にした『言論表現の自由』の意味は大きい。同時に、その市民社会は国民国家という形態と二重構造を形成し、そこでは近代的メディアは共通の言語空間の形成と維持という機能を果たしてきた。そこにナショナリズムが成立する。
 表現の自由(市民社会)と共通の言語空間(国民国家)との関係(乖離)にメディアはどう関わるのか。」共通の言語空間こそ「想像の共同体」なのだ。(<放送メディアの構造と制度>への問い返し・・・ 「政治的公平性」について、もう一つのアプローチ
 そこで、こうも書いている。
「放送は周波数管理(免許制度)体系の下に置かれる。それは周波数の希少性や混信防止という技術的理由によるものだけではなく、情報のライブ性(同時性/共時性)というメディア特性による。国家は時間管理の危うさを先験的かつ先見的に知っていたのである」。
だから、時間管理は空間管理につながるのだ。

国家について考えるときに、私の中に否応なく湧いてくるある思いがある。
 「マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」寺山修司
 「朝焼けの空にゴッホの雲浮けり捨てなばすがしからん祖国そのほか」佐々木幸綱

寺山修司が、戦死した父の墓を詣でるとき、「身捨つるほどの祖国はありや」と自分に(=時代に)に問うた思いをうたったのに対し、佐々木幸綱はそれへの返歌のように「捨てなばすがしからん祖国そのほか」と詠んでいる。
 日本の戦後の精神史、国家に対する個の優位性の系譜は、この「身捨つるほどの祖国」から、「捨てなばすがしからん祖国」へと、抒情の立ち位置を変えたのだろう。それが、戦後と戦後・後の落差であると思う。この国家との距離感、そして「身捨つるほど祖国はありや」という、あるいは「捨てなばすがしからん」という断言の前の一瞬の躊躇いに、国家との関係の困難さを読み取れるべきだろう。付け加えれば、佐々木幸綱の「祖国そのほか」の「そのほか」という一言が好きだ。

 そのうえで、「国家という幻想」という認識と、「思いがけず出会う」のがテレビの良さ、というテレビ論を持つ是枝氏が、BPO(放送倫理・番組向上機構)の委員であることを、私はとても大事だと思っている。

345-346
「このように僕の場合は。テーマというのは撮る前に分かっているのではなく、作品の細かなディテールを詰めていくなかで同時並行的生まれていく傾向が強いです。
 ただ、テーマやメッセージというのは自分として意識しているだけなので、なるべく取材でも応えないようにしています。作品には僕がいま生きている世界や考えていることが反映されているだろうから、あえ言葉にすることで僕が把握している以外のテーマやメッセージが切り捨てられるのを避けたいからです。
 作品に漂う意識下のテーマやメッセージをすくいあげて言葉にしてくれる記者や映画評論家がたまにいると、とても嬉しいです。」
 
 「万引き家族」について、私なりの思いを書いたときに、<テーマよりもモチーフを、モチーフよりもマチエールを>(谷川雁)という言葉を引用した。それは、「意識下のテーマやモチーフ」が対象(マチエール)へのアプローチになるのだとすれば、モチーフの二重構造=対象への関心とその表現の発意にこそ、制作の初発のエネルギーがあるのではないかと思ったからだ。

Ⅶ.テレビジョンはケ<日常>である
「お前に捧げる十八の言葉」(「お前はただの現在に過ぎない」)より 

そして、P353.
<3.11.>について、こう書かれている。
「(東日本大震災直後)当時のことは生々しい記憶として身体に残っています。当時、つくり手たちは自分たちのつくるものに価値があるのか、そもそも今何かをつくることが正しいのかという不安や焦燥を抱えていました。そして、それぞれの思考や手探りの経験を経て、もう一度。つくるという日常に戻っていったのだと思います」。
「もし僕の映画に共通したメッセージがあるとするなら、かけがえのない大切なものは非日常の側にあるのではなく、日常のささやかなもののなかに存在している、ということ」。

そう、テレビジョンはハレではなくケ(日常)なのである。
しかし、日常の破綻、崩壊は、日常の時間の切断として起こる。<9.11.>も、<3.11.>も、テレビは伝えた。伝えるしかなかった。それがテレビジョンだから。日常にある大切なものとその危機、日常と非日常の断面、その連続/不連続もまた日常なのだと思う。だから、テレビは情報をパッケージとして提出するメディアの対極にあるのだ。

P361.
「そして父になる」について、絆、血、時間、というキーワードが提出される。
この「映画を撮りながら考えたこと」の取材構成を担当したライター堀香織が、是枝氏の作品と人に惹かれる理由は、ここにあるのであろう、と思う。それは、彼女のいくつかのエセーに描かれているように、彼女の家族とその周辺の人々への視線やそこに込められた屈折から読み取れる、と私は思う。だからこそ、8間も年取材し、構成し、書き上げのだろう。

Ⅷ.最後に
この本は、気が付くこと、思い至ることが多い本だ。
その最も深いところにあるのは、自分にとっての「断念」ということだ。
何かになりたい、何かをしたい、という期待、希望、夢、を持たないところから私の人生はスタートした。そんなものはありえなかった。
失われたものと言ったけれど、それは何かを所有していたわけではない。既に、何もなかったのだった。ただ、ひたすら自分でありたかった。それに、ほんの少しのぬくもりを。それだけが欲しかった。
今でもそうである。では、その後の60余年は何だったのか。そのことを確かめるための時間以外の何物でもない。このことはマイヒストリーとして、改めてどこかに書いておこう。これもそうだけど。
「前川日記番外編 ・・・この季節の雨は、ある情景を思い起させる。」
  -自分と世界との関係の始まりを、私は知らず知らずのうちに意識していたに違いない-

それも含めて、とても多くのことを思い起こし、またさまざまな思いに波及した。
是枝氏に感謝する。

テレビについての本は数多ある中で、
今野勉「テレビの青春」
中山千夏「芸能人の帽子 アナログTV時代タレントと芸能記事」
久米宏 「久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンである」

この三冊は優れたドキュメントであり、テレビ論の名著だと思うけれど、この「映画を撮りながら考えたこと」はそれらと並ぶ本であろう。
この本は、是枝氏とライター堀香織の優れた共同作業である。



※ 参 考
[テレビ論のためのメモ]
TBS闘争、そして「お前はただの現在に過ぎない」(萩元、村木、今野)、及び私に強い刺激を与えた村木良彦のテレビ論については以下を参照されたい。
いずれも、TBSメディア総研HP <メディアノート Maekawaメモ>
以下、タイトルクリックでリンク

No91.2008.2.1
「追悼 村木良彦さんのこと」

No92.2008.2.15
「もう一度、村木良彦さんのこと」-<エレクトロニクス・コピー・メディア>と<私>-

No93.2008.3.1
「村木良彦氏の<テレビ論>についてのノート・補論」
-テレビジョンの可能性と不可能性-


No108.2008.10.15
[記録の意味-「お前はただの現在に過ぎない」文庫版再刊について ]


No109.2008.11.1
[私的解読・・・「存在論的・テレビ的」]  続・「お前はただの現在に過ぎない」文庫版について

No110.
[自分のいるところが、テレビジョン] -村木良彦さんを偲ぶ会-


MM119.2009.4.1
[テレビ的行為とは何か-放送人の世界・村木良彦-]


MM120.2009.4.15
[テレビジョンの構造転換-補・村木良彦のテレビ論について]


尚、村木良彦ブログはネットに残っている。


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