HOME > Special > 前川日記 番外編 「母の死のこと 辞世の歌」 2018.9.15.

Special

辭世 昭和弐拾年九月一日 徳恒院
「遠からず我が玉の緒は尽きるとも死を待つ今の心静けさ」


昭和二十年九月一日の母の辞世の歌である。
命日は九月六日。敗戦の二十日ほど後だ。
この時、母は二十九歳。戒名まで書いてある。
父は商社員だったが、戦時物資調達のためペナン島(現マレーシア)に赴任。戦況の悪化とともに音信不通。そのことは、母が姑にあてた手紙に書いている。手紙には、その年の三月三十一日の消印がある。
この辞世の歌より少し前、戦争末期であろう、こんな歌も残されている。


「事もなく君を迎えるその日まで我が黒髪にはさみふれまじ」
「意気地(?)なく若き命の蝕める一億あげて戦える秋」
「戯るる二人の子等を思ふとき病める我が身の心騒がし」
「何もかも諦めし身の我なれどなほ思いやる子らの行く末」
「秋」はときと詠むべきであろう。?は判読が難しい一字。
夫は不在で戦況が悪化している中で、自分は結核が進行していることを自覚している。七歳と四歳の子供をどうしたらいいのか。

そして、敗戦。
「事もなく」夫が帰国することはなかった。
自分の命が尽きることを覚悟して辞世の歌を詠んだのだ。ついこの間まで、我が子のことを思って「心騒がし」と詠んでいたのに、「心静けさ」という。仏壇の引き出しから、この数首の歌が書き遺されている手帳を見た時に、「心静けさ」はないだろう、と思ったものだった。だが、きっと死を前にして取り乱すのは嫌だったのだろう、と今は思う。清書された半紙は、最近兄が遺品の中から見つけてきた。処分していいかというから、ちょっと待ってほしいと言って預かったものだ。


その頃、母は実家と疎遠になっていたらしい。その後も、母方の親戚とはほとんど縁がなかった。そばにいたのは、まだ十代の女中さん(今は、お手伝いさんあるいはヘルパーさんという)一人。父の本家筋は疎開で板橋の外れにいた。九月六日、母が死んだ時は誰がどうしたのか、四歳の私には何の記憶もない。ただ、白い布を被った女のひと、というのがその日の母の記憶である。
写真は、昭和十九年頃か。外地の父に送ったのではないだろうか。後にこの写真を見た時、おお、何て美人なんだと思ったが、兄に言わせれば母が笑っている写真はないよ、ということだった。


この写真は昭和十七年父が南方赴任直前のもの。
母の膝の上が私。立っているのは兄。後ろ、右が女中さんのシモさん。左は書生さんだろう。シモさんは昭和二十一年二月に父が帰国して、鎌倉に落ち着くまで世話をしてくれた。この人がいなかったら、私たち兄弟はどうなっていただろうか。その後、横浜のパン屋さんに嫁いだと聞いた。数年前、残された住所を手掛かりに探したけれど、分からなかった。
鎌倉に移ってすぐ、多分5歳くらいだろう、どういう事情か記憶にないが、シモさんの郷里の土浦に連れて行ってもらったことがあった。一週間ほどいただろうか。竹藪の中の小道を通ると霞ヶ浦に出る。刈った草を積んだ牛車に乗せられたり、脱穀機で仕事をしているのを見た記憶がある。農家の土間の囲炉裏の上の鉄瓶が昼間も湯気を立てていた。煮立った湯の匂いは、今でも突然思い出すことがある。霞ヶ浦飛行場を通ってその家に牛に曳かれて荷車で行ったのだが、月夜の下で零戦(だろう)が一機忘れられたように残っていたこと、帰りのどこかの駅で蒸気機関車の給水しているのを見ていたこと、などが記憶の断片である。

ほどなく、父も結核で寝たり起きたりの日が続くようになり、継母は私が中学に入った年から発作で倒れるようになった。中学2年の五月に継母が、十一月に父が逝ってしまったのだ。その頃、私たち兄弟は再び成増(板橋)の伯父の家に世話になっていたのだった。
 
 私にとって、自分は何者か、という問いが強く深く自分の中に刺さっているのは、幼少時の母の不在が大きいからだろう。父が再婚した継母も、そして父も十四歳の時に死んだ。継母は四十四歳。教育熱心ないい人だった。父は四十六歳、千重子母とはモボモガの似合いだっただろう。子供のころ、父とはどことなく距離があった気がする。兄は長男でしっかり者としてあてにされていた。次男の私は、あの母の手紙に甘えん坊の落第だ、と書いてある。だが、成長するまで父がいたら、案外うまく行ったのではないかと思うことがある。気質としては、兄より私の方が近かったのではないだろうか。 
こうして、今年も母の命日を迎えたのだった。
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2014年1月24日の日記から
(略)
ところで、どこかで書いたかもしれないが、小津(安二郎)は私の母の従兄弟である。そのことを産まれてから40年ほど知らなかった。早く両親がいなくなった後、そのことを誰も話してくれなかった。
TBSの現場にいたころのある日、一枚の葉書がデスクに届いた。「テレビ番組で前川英樹さんというお名前を拝見しました。ひょっとして前川信吉さんと千重子さんのご子息でしょうか。もしそうだとすれば、私は叔母の・・・です。」と書いてある。実母側の親戚とはどんな事情か仔細は知らず、父も子供たちに話しても仕方がないと思ったのだろう、疎遠のまま何年も経っていた。
で、会うことにした。会ってみていろいろ話しているうちに、「映画監督の小津安二郎は私たちの従兄弟なんですよ」という話になってまた吃驚。「小津が”終戦でシンガポールから引き揚げる船で、前川の信吉さんと一緒だった”と言っていた」という。小津安二郎は多くの日記を残しているが、その時期の記録は見つかっていない。
図の最下段左の「千重子」が実母。(「小津安二郎全日記」P846田中眞澄編纂・フィルムアート社 1993年)
それにしても、そんなことを知っていたら僕はこの世界に入らなかっただろうナ、多分。

父の旅券(パスポート)
従三位勲一等 東郷茂徳 時代だなあ。



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